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第二の余論は心理学。素人の生兵法なりに、「殴り合うコミュニケーション」の背景心理について考えてみます。詳しい方からのご意見を大歓迎。

結論は、「殴り合う」ためには自己肯定が必要で、自己否定そして「自我肥大」に陥った者には難しい、ということです。

まず、私が色々と読み齧った知識を、勝手な解釈で整理します。

人は誰しも自分自身のイメージを持っています。このイメージは、過去の経験、現在の実状、そして未来への期待などから想像されたもので、必ずしも本当の「自己」(Self)とは一致しません。このようなイメージを「自己像」(Self-Image)と呼びます。

「自己像」はその者の行動の目安となります。行動が成功すれば自信を生み、それが繰り返されれば「自己像」が上方修正されます。失敗は疑念を生み、工夫と努力が求められますが、それでも繰り返されれば「自己像」が下方修正されます。こうして徐々に「自己像」は安定したものになっていきますが、これら成功と失敗を繰り返す過程で「自己」は試され、確認され、肯定されるのです。そのために最適な状況こそ「成功するか失敗するか分からない」状況で全力を尽くすことであり、逆に言うと、そのような状況に身を置くためには自己肯定が必要である、となります。

しかしながら何らかの理由で極度の自信喪失、自己否定に陥り、しかもその反動で極度に理想的な「自己像」を生む場合があります。これを「自己膨張」または「自我肥大」(Self-Inflation Ego-Inflation)と言います。この「肥大した自己像」は「自己」を確認するためではなく、むしろ直視しないためにあります。また下方修正などは「自己」を見つめ直すことに他なりませんから、失敗しないことに腐心します。結果その選択は、「必ず成功する」なら行動する、失敗するかもしれないなら「行動しない」、あるいは「必ず失敗する」ようにして「本当は成功できたけど、わざと失敗した」と主張する、の三択となります。

さて、「殴り合うコミュニケーション」は「成功するか失敗するか分からない」ものですから、自己肯定が必須となります。「殴る」のは相手の意見、「殴られる」「殴ってもらう」のは自分の意見ですが、その背景にある互いの「自己像」も無傷ではすみません。しかし、「自己像」の傷つきが忌避すべきもので無いこと、「殴り合う」ことが「殺し合う」ことで無いことは、自分への信頼感を持つものにとっては言うまでもないことです。

自己否定や「自我肥大」に陥った者にとっては、「殴り合う」ことは、即ち「殺し合う」ことに他なりません。理想的な「肥大した自己像」が傷つけば、他には何も残らない、存在ごと否定される、と思うわけですから。実際にはそんなことはないのですが、その恐怖が行動を規制するのです。

ただし、「殴り合わない人々」のすべてが「自我肥大」の持ち主ということではありません。その多くは、おそらく「殴り合う」習慣が無いだけです。まず知識として知らなければ積極的に行なおうとはしませんし、「できる(かも知れない)」という認識が無ければ、たまさか機会があっても尻込みしてしまいますから。

あるいはまた、単にその相手に価値を見出していないだけかもしれません。例えば、コンベンションで数時間卓を囲む相手などは遊ぶための道具に過ぎない、人間扱いしなくてもよい、という考え方です。そういう者は自分もまた道具レベルを自認しているわけで、それはそれで公平なのかも知れませんが。

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