プレイヤー無能説の誤り

結構昔のことですが、「プレイヤーはゲームマスターが期待するほど有能ではない、プレイヤーは無能(もしくは馬鹿)だと思ってシナリオを作ってちょうど良い」という見解が説かれたことがありました。RPG雑誌の紙面を飾ったことすらあったように憶えておりますから、当時それなりに認められていたらしいこの意見を、私は勝手に「プレイヤー無能説」と呼んでおります。

しかしながら、この「プレイヤー無能説」は間違っている、と私は考えています。

まずは「正しい」と言えなくもない面について。ゲームプレイ中のプレイヤーは架空世界に生きるキャラクターを表現しようと努めますが、逃れ難いハンディキャップを負っています。第一に、キャラクターの五感はゲームマスターの言葉によって、キャラクターの行為はプレイヤーの言葉によって間接的に伝えられるため、言語化とその理解とに手間がかかります。第二に、プレイヤーとは異なる人格をキャラクターに与えた場合、それを想像するための労力が必要となります。第三に、シナリオを第三者的に把握しようとするならば、更に異なる視点を常に維持しなくてはなりません。プレイヤーの思考力はこれらの作業に大きく割かれ、残る僅かな力のみがキャラクターの活躍のために用いられることとなります。事前に既にプレイヤー本来の能力からかけ離れて劣ったものとなっているのです。

ただしそれは、「キャラクターの無能」であって、「プレイヤーの無能」ではありません。

プレイヤーがキャラクター人格の創造にどれほど情熱を込めたとしても、むしろ込めれば込めるほど、キャラクターは無能化します。優れた技能、特殊能力、装備や魔術を持っていたとしても、その発想や行動は硬直しており、パターン化された類型を逸脱することはありません。そこに見られるのは、主義や教義から一歩もはみ出すことのない狂信者のような、あるいはロボットのような不自然極まりない人格でしかないのです。現実の人間のような柔軟性、時には「思わず」己のルールを破ってしまうような融通を失ってしまうのです。もしそうでない(普通の人間のような)キャラクターを演じることができるなら、そのプレイヤーは飛び抜けて有能なわけで、やはり無能ではありません。

さて次いでは、「プレイヤー無能説」が明らかに間違っている点。「無能」とは実は「ゲームマスターの期待通りにできない」ことを意味しているのです。「無能なプレイヤー」とは詰まるところ、ゲームマスターが考えて欲しいように考えることができず、行動して欲しいように行動することができず、出して欲しいようにダイスの出目を出すことができない人物なのです。ああ、ゲームマスターの期待通りになるべきプレイを「失敗」させるとは、何とけしからんプレイヤーなのか!

これは「プレイヤーの無能」ではなく、「ゲームマスターの無能」と言って良いでしょう。

それでも「プレイヤーの無能」を矯正することでゲームマスターが「成功」すると信じる者たちは、(キャラクターではなく)プレイヤーをコントロールするための技法を研究していくことでしょう。その努力が実を結ぶかは、歴史の審判に任せられます。そして、それが本当にプレイヤーにとって喜ばしいことなのか、も。

強いて言うならば、「ゲームマスターの無能」を「プレイヤーの無能」とする明らかな責任転嫁に対して「然様ご尤も」と盲従してしまうような者がいるならば、その者は別の意味で「無能なプレイヤー」と呼ばれて仕方ないのかも知れませんが。