カテゴリー化の理想と現実

回転翼さんが「うがって」くれましたので、約定(ブログの説明文)に則り別エントリーにてお返事を。

まず、カテゴリー化の理想像。回転翼さんが試みたように、「違和感」などは排除した分類法が確立され、それを誰もが用いるようになることが理想です。私はあまり詳しくありませんが、自動車の車種などはうまくカテゴリー化されているのではないでしょうか。もちろんそれ以外が禁じられているのでなければ、新たなカテゴリーを狙う動きにも常に配慮しなくてはなりませんが。

で、現実。「違和感」によるカテゴリー化を無くすことは極めて困難、ほぼ不可能です。何故かというと、そうしたカテゴリー化は、それを行う者の利益のために行われるものだからです。好ましく思ったにせよ、良からぬものと感じたにせよ、その「違和感」を正当化できるのですね。標準的な分類法が確立したとしても、その目的を達するべく勝手な解釈を加えたり、それ以外のカテゴリー名を作ったりするでしょう。

むしろ問題は、誰しもが耳慣れたカテゴリー名を使いたがる、つい使ってしまうことにあります。同じ名を使うが故に、悪い違和感を抱いた者の意見を、良い違和感を抱いた者は誹謗中傷と捉えて憤慨します。逆であれば、気の違った狂信と蔑むのです。アリアンロッドもソードワールドも違いなく、カテゴリーを無視して自由に遊べる者は、そのどちらにも属さないのですが。

より現実的なのは、カテゴリー名そのものには実体が無いことを認識することでしょう。誰かが同じカテゴリーを説いた時、いたずらに同調したり反発したりするのではなく、その者がどういう「違和感」を感じてその語を用いているのかを、冷静に分析することです。

…意外と日本人には無自覚に宗教的な者が多く、そういう者はちょっとした言葉の中にも心の安らぎばかり求めるため、自分から突き放して考えることが苦手だったりするのですけどね。

なお、カテゴリー分析の一例は、別途「論考レビュー」として示すつもりです。