余論 : 和をもって貴しとなす

ここからは余談ならぬ余論です。三本組の予定。

聖徳太子の憲法十七条は、「和をもって貴しとなす」から始まります。日本人なら誰もがこの文句を知っているでしょうから、「殴り合う」などとんでもない、と思われる方がいるかも知れません。第一の余論として、この条文が「殴り合うコミュニケーション」を否定するものなのか、考えてみます。

まず第一条の全文を引用します。原文の漢文と、1の読み下し文は、『日本書紀(四)』(岩波文庫)から。現代語訳は、2を『日本書紀(下) 全現代語訳』(講談社学術文庫)、3を『日本書紀Ⅲ』(中公クラシックス)から引いています。人口に膾炙した感のある「和をもって貴しとなす」と読ませるものは、何故かありません。ふりがなは、特に分かり難い語についてのみ記し、他は省略しています。

  • 一曰、以和為貴、無忤為宗。
    1. 一に曰はく、和(やはら)ぐを以て貴しとし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。
    2. 一にいう。和を大切にし、いさかいをせぬようにせよ。
    3. 一にいう。和をたいせつにし、人といさかいをせぬようにせよ。
  • 人皆有黨。亦少達者。
    1. 人皆党(たむら)有り。亦達(さと)る者少し。
    2. 人は皆それぞれ仲間があるが、全くよく悟った者も少ない。
    3. 人にはそれぞれつきあいというものがあるが、この世には理想的な人格者というものもまた少ないものだ。
  • 是以、或不順君父。乍違于隣里。
    1. 是を以て、或いは君父(きみかぞ)に順はず。乍隣里(さととなり)に違ふ。
    2. それ故君主や父にしたがわず、また隣人と仲違いしたりする。
    3. それゆえ、とかく君主や父に従わなかったり、身近な人々と仲違いをおこしたりする。
  • 然上和下睦、諧於論事、
    1. 然れども、上和ぎ下睦びて、事を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、
    2. けれども上下の者が睦まじく論じ合えば、
    3. しかし、上司と下僚とが、にこやかに睦まじく論じあえれば、
  • 則事理自通。何事不成。
    1. 事理(こと)自づからに通ふ。何事か成らざらむ。
    2. おのずから道理が通じ合い、どんなことでも成就するだろう。
    3. おのずから筋道にかない、どんなことでも成就するであろう。

整理すると、「不順君父」と「違于隣里」とが「忤」ふること、「上和下睦、諧於論事」が「」ぐこと、となります。上記二種の現代語訳のように「諧於論事」を「論じ合う」とするのに私も異論ありませんので、「論じ合う」こと即ち「殴り合うコミュニケーション」は「和」の一環として肯定されている、と考えます。

片や、「論じ合う」こと無しに「従わない」あるいは「仲違いする」ことは「殺し合うコミュニケーション」に当たり、それらこそが「和」に反する行為となります。「和」を大切にする日本人であれば、積極的に「論じ合う」べきとも言えましょう。

…実は「諧於論事」を、論じる振りだけして話を合わせておけ、と読めなくも無いのですが、それで「事理自通」となるとも思えませんからねぇ。上の理解で大丈夫でしょう、多分。

余論ついでに、もうひとつ古典ネタを述べると、『論語』の下記一文の方が「殴り合う人々」と「殴り合わない人々」との比較には合っているかも知れません。資料には『論語新釈』(講談社学術文庫)を使用。

  • 君子和而不同、小人同而不和 (君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず)

こちらについては、あまり細かいことは言いません。