「信じる」内容と難しさ (デザイン篇)

前のエントリーでの予告通り、卓上RPGのゲームシステムをデザインする上で、そのユーザーを「信じる」か「信じない」か、について述べます。ここでも、やはり善悪は関係なく、あくまでも設計思想の違いです。そしてデザイナーが「信じる」か「信じない」かの内容は、ユーザーのプレイ能力楽しもうと努める姿勢となります。

ユーザーを「信じる」デザインとは、そのゲームシステムの遊び手にプレイ能力や楽しむ姿勢などが一定以上ある、と想定してデザインする方法です。ルール、データ、設定などの取捨選択、具体的な活用方法の考案など、ゲームシステムを使いこなすのはユーザーに任されます。デザイナーは好き勝手にデザインするだけ、ユーザーもそれを好き勝手に遊ぶだけ、という関係が成立します。海外作品まで含めれば、このようなデザインが圧倒的多数を占めているように思われます。

逆に、「信じない」デザインとは、プレイ能力や楽しむ姿勢が極めて低い(無い)ユーザーを想定してシステムをデザインするものです。取捨選択ができない者のために過不足無いシステムを、活用できない者のために完成した活用方法を提供し、最も無能なユーザーでも問題なく遊べるように工夫を凝らします。ユーザーは提供されたシステムをその通り運用すれば、ゲームプレイを成立させることができるのです。このような緻密なデザインは、近年の日本に特有なものと私は考えております。

なお、「信じる」「信じない」と、デザインされたゲームシステムの特徴とは、必ずしも直結しません。例えば同じくらいデータの多いシステムを、「信じる」デザイナーならユーザーが取捨選択するだろうと思って、「信じない」デザイナーならユーザーをデータ処理に専念させるのが最善と判断して、各々デザインすることがあります。個々のデザイナーが抱くユーザー像が加わって、どうデザインするかが決めるのです。

ただし、ゲームシステムに対するサポートでは、違いが顕著に表れます。概して「信じる」デザイナーは、手掛かりは与えるにせよ、最終判断をユーザーに任せます。「信じない」デザイナーは、ユーザーには決められないことを前提に、何らかの公式回答を示そうとするでしょう。例えば、一見似ていますが、「ユーザーが決めろ」は前者、「ゲームマスターに従え」は後者です。

さて、少なくとも日本では、「信じる」デザインから「信じない」デザインへの「進化」が見受けられます。自分の力量に見合った成果で満足するユーザーから、力量に関係なく最高の成果を欲するユーザーへの変化があって、デザイナーがそれに対応したのか。逆に、デザイナーが能力や姿勢に関係なく遊べるゲームを提供したため、そういうユーザーが増えたのか。どちらであれ、現状そのような市場が確立していることは間違いありません。多様性の広がりとしては大変素晴らしいことである、と私は考えます。