「自由」と「自由」が争う時

もう少し、「自由」全般についての考察を重ねます。

「自由」とは「私はこうしたい、こうすべきだ、こうしよう」といった「自分の決断」によって行動することである、と述べました。もし、ある者の「自由」と他の者の「自由」とが相容れないものであった場合は、どうなるでしょうか。争いがおき、勝った方のみ「自由」を保ち、負けた方は放棄することになるのでしょうか?

否。弱肉強食が「自由」なのではありません。あなたが他から「自由」を奪えば、あなたもまた他の誰かに奪われるでしょう。それを繰り返せば、最も強い者、最終的には一人のみが「自由」となり、余の者は「管理」されるようになります。「自由」無き世界の誕生です。単なる自分勝手やワガママが辿り着くのは、「自由」ではなく「管理」である、と言えます。

もしあなたが自分の「自由」を守りたいなら、他人の「自由」をも尊重しなくてはなりません。可能な限りすべての「自由」を共存させることを目的として、互いに「自分の決断」を示し合い、必要かつ可能ならば、その再調整を図ることになります。他人の「自分の決断」を情報として組み込むことで、「自分の決断」をより適切なものに練り込んでいくのです。このような相互理解のためのコミュニケーションが、「自由」を維持するために必須です。

「私はこうしたい、こうすべきだ、こうしよう」と、互いに語り合い、訊き合うコミュニケーションの中で、ある者から他の者へ提案が示されることもあります。あくまでも提案であって命令ではありません。他からの提案を「自分の決断」に組み込むか否かは本人次第ですから、その「責任」も提案者ではなく行動者に帰せられます。(提案か命令か区別困難なら、試しに逆らってみると本性が分かります。相手が怒り出したら後者。)

「自由」が相容れないまま対立に陥ったとしても、相互理解の上であれば、最悪の被害だけは避けることができる筈です。相手が何故そうしなくてはならないのか、既に分かっているのですから。

他方、「管理」する者とされる者との間には、命令系統に問題がなければ、対立はまず起こりません。命令確認のためのコミュニケーションは望ましくとも、必須というほどではありません。場合によっては、コミュニケーションを口答えと取られることもありえますので、ご注意。(サー!イエス・サー!)

「自由」には真摯なコミュニケーションが不可欠です。その過程で、時に剣呑な雰囲気となることもあります。そのような真剣なやり取りを争いと呼ぶならば、何らストレスの無い恒久平和を求めるならば、「管理」される側に安住するのが無難な選択かも知れません。「管理」する側が争いを望まない限り、ではありますが。