意図は命令、理想的な遊び方可能説

ggincさんからトラックバックをいただきました。貴論考も私にとって大変勉強になっております。厚く御礼申し上げます。

さて、遅くなりましたが、貴論考でのまとめについて私の考えを記します。訂正ではなく、補足として。

まず「意図」について。私は、自分の行動を決める「決断」と、他人に行動させる「命令」とを分けて使っております。そして私が言う「意図」とは、「命令」とほぼ同じものです。ただし「意図」は「命令」のように明確でも直接的でもないため、正しく伝わらないこともしばしば、本来存在しなかった「意図」を受け手側で捏造してしまうこともあります。この「意図」の意味の限定は、私の文章で分かり難いところだったかも知れません。

次に、「典型的な遊び方」「アクロバティックな遊び方」「理想的な遊び方」の三つを用いて、ゲームデザイナーとユーザー(ゲームマスターとプレイヤー)との関係における「自由」と「管理」について、私の考えをまとめます。「自由」に遊ぶとは、「典型的な遊び方」や「アクロバティックな遊び方」を、ほとんど区別せずに用いることです。「理想的な遊び方」の存在すら考慮されません。「管理」されて遊ぶとは、大抵は「典型的な遊び方」を、時には「アクロバティックな遊び方」や「理想的な遊び方」を、どれであれ「理想的な遊び方」と信じて用いることです。

なお、「理想的な遊び方」はデザイナーからユーザーへの伝達方法によって可能であり、現在一番近いものが「シナリオクラフト」ではないか、と私は考えております。この辺は後日記す予定です。

ggincさんの理論を拝して、その根底に「ゲームデザイナー→ゲームマスター→プレイヤー」という図式があるように思われました。私は「管理」でも「ゲームデザイナー→ユーザー(ゲームマスターとプレイヤー)」と「ゲームマスター→プレイヤー」との枠構造を想定しています。「自由」では三者が並立します。これらの差が、論考にも影響を与えているかも知れません。

以上、もし不明な点がありましたらお問合せ下さい。

余談。ご紹介いただきました野家啓一『物語の哲学』(岩波現代文庫)を購入しました。文学関係は苦手なのと、じっくり読む時間が確保できず、すぐには理解できそうにありません。「理想の…」について認識不足がありましたら、ご寛恕願います。