論考をどう評価するか

こちらの続き。

論考を読んだ時の反応は様々です。他人が書いた論考を読んだ者は、その背景にある体験や考察を大なり小なり感じ取ります。それらが異質なものであれば、難しさ、あるいは不快感を覚えます。

論考に接し慣れた者であれば、異質な体験や考察でも肯定的に認め、尊重することができます。未知の体験や発想を、自分を発展させうる参考資料として活用できることを知っているのです。彼我を比較した結果、その論考を「批判」することも勿論あります。「批判」とは「肯定」の一形態であり、批判する価値のある論考との出会いは論者にとって幸せなことです。逆に賛成の場合は沈黙で応え、謙虚に自分の考察に活かすこととします。

さて、そのような思考ができない者は、自分の体験や考察と似ているか否か、をそのまま論考の評価に繋げます。

体験がまったく異質な場合は「ありえない」「非現実的」などとして、体験は似ていても考察が異なれば「愚か」「妄想」などとして、論考を「否定」します。「否定」はしばしば嘲笑の形を取り、論考の抹殺を目論みます。かつて天動説を信じた者が地動説に接した時のように。

体験も考察も同じ場合でも、読者が自分の考察に自信があるか否か、で反応が分かれます。自信がある場合は「当たり前だ」と反応します。更にはある種の妬みから「分かり切ったことを偉そうに」などと嘲ることで論者を貶め、相対的に自尊心を守ろうとするかも知れません。地動説を信じる者の前で誰かが地動説を唱えれば、似たようなことが起こりうるでしょう。

そして。自信が無かった自分の考察が、同じ論旨の論考によって肯定された、と思われた時。読者はその論考を「有意義」と感じ「役に立つ論考」と褒め称えるのです。実際には自分の考察を褒め称えているだけです。先々の実践に「役に立つ」のもその人自身の考察であって、その論考ではありません。

もっとも、論考の内容で判断するのは、まだマシな方です。更に酷い読者は、書かれている内容でなく、その著者によって評価します。「一流」などと(誰かに)評価された著者が書いたことなら、すべて正しい、すべて受け入れる、と。こうなると相手を「信じる」というより、権威に依存して安心感を得ているような、本当の「信仰」のようになります。

真逆に、ゲームシステムについてのゲームデザイナー本人の弁すら内容次第、という私の姿勢もまた極端かもしれません。しかし批判精神とはそうあるべきものだと考えるのです。