リプレイで伝わらない自己満足

acceleratorさんとにゃあさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

Googleの件は別途書きましたので、それ以外についてお返事いたします。

>acceleratorさん

リプレイはRPGの「面白そうな事例」を示すに優れていても、遊び手が感じる「面白さ」を伝えることはできません。リプレイのように遊ぶ、即ち「面白そうな事例」を真似ることで、「楽しんでいる」気分になれますし、伝わる面白さもあります。しかしながら「自由に遊ぶ」面白さは伝わらない、と私は考えるのです。

とはいえ、具体像が分からないと近寄れない、という意見も確かにあるでしょう。何か別の方法を講じたいところです。問題は、現在「自由」が妙に悪者扱いされていることでして、ボールを投げバットを振るのを「悪いこと」と思っている相手に野球の面白さをどう伝えたものか…。

あと、私が「自由」に拘る理由は、それが素晴らしく面白い、と知っているからです。面白いから、皆に伝えたい、というだけのこと。「野球が嫌い」なら仕方ありませんが、「野球などやってはならない」と言われたら、野球好きなら「やっても良いし、面白いものだ」と言いたくなるわけです。それに私は、美味い店を見つけたら、皆に教えたくなる口なので。

>にゃあさん

まさにご指摘の通り、「自由に遊ぶ」とは「自己満足」を肯定して遊ぶことです。素朴な疑問、「自己満足」を否定する遊びがあるなら、それは何を満足させるためにあるのでしょうか?

ある参加者が楽しむと他の参加者が楽しめなくなる、一人が満足すると他の皆が満足できなくなる、というなら、それは多人数でやる遊戯とは言えません。独り遊びをする人間が複数いるだけ。あるいは「他の参加者が苦しむのを見て楽しむ」者や「自分だけが一番楽しめなければ嫌だ」という輩を想定しているなら、私は「自分がそうでない」から「他の参加者もそうでない」と信じることができますし、少なくともそういう人間を基準にすべきとは思いません。

複数の人間が参加する遊戯では、互いの「自己満足」が衝突するのは当たり前、お互いさまです。自分のエゴを堂々と示し、相手のエゴにも敬意を表し、そしてルールに則った「エゴの張り合い」を楽しむのです。自分のエゴが阻害されるのを覚悟の上で参加するのですから、「自分のエゴが阻まれては厭だ、という者」には向かないのです。

「箱庭型TRPG」と「自由に遊ぶ」こととは、厳密には同じではありません。ただ、「GMは管理しない」「うまくいく/いかないという概念はない」「進めるべきお話はない」という点なら共通します。「お話がうまく進むようGMが管理する」ものこそ、私が言う「管理して/されて遊ぶ」ゲームプレイであり、「箱庭」や「自由」の対極に位置する遊び方です。