「自分が面白い」と「自分だけが面白い」の違い

まず、xenothさんからトラックバックをいただいたことに御礼と、そして返事が大変遅くなりましたことにお詫びを申し上げます。サーバートラブル等もありましたが、一月以上も経ってしまいました。

さて、上記記事を拝読し、xenothさんと私とではゲームプレイの参加者が「面白い」と感じることについての考え方が異なっている、と判断しました。xenothさんの文中に、次の一節があります。

もう一度言いますがGMが「これなら面白いだろう」と思って準備した導入を、プレイヤー全員が「心からつまらない」と思ってボイコットするような状況は、普通に考えてヤバいです。マズいです。GMが面白いと考えるものと、プレイヤーが面白いと考えるものが、全く一致してないわけです。この状況で、TRPGを続けるのは危険です。

xenothさんは、ゲームプレイ参加者が「面白い」と感じることには「自分だけが面白い」(他の人はつまらない)ことと「皆が面白い」こととがあり、両者を使い分けることができる、と考えておられるようです。「自分だけが面白い」のではなく「皆が面白い」ような選択をすべきである、と。そうであるから、ゲームマスターが「面白いだろう」と考えるものとプレイヤーのそれとが一致しないことは「ヤバい」し「マズい」のであって、「一旦、ゲームを切って、相談すべき」であり、相談すれば一致させられる、とお考えなのでしょう。

対して私は、ゲームプレイ参加者に分かるのは「自分が面白い」か「自分がつまらない」かだけがあり、それが他の参加者にとって「面白い」か「つまらない」かは分からない、と考えています。「自分だけが面白い」(他の人はつまらない)か「皆が面白い」かは、結果としてはどちらかになるとしても、実際にどちらなのかは誰にも認識できない、まして両者を使い分けることなどできない、と。

ゲームマスターが「これなら面白いだろう」と思うことをプレイヤーが「つまらない」と思うのは、しばしば起こりうることです。ただプレイヤーが、それを正直に「つまらない」と伝える場合と、「ネガティブな発言をしてはならない」と心掛けるなどして「面白い」と言う場合とに分かれます。プレイヤーが「つまらない」と言ったからと中断して話し合っても、結局はどちらが相手の「自分が面白い」に合わせるか、という話にしかならないだろう、と私は考えます。

「自由に遊ぶゲームプレイ」と「管理して/されて遊ぶゲームプレイ」とは、このような、「自分が面白い」か「自分がつまらない」かしか認識できない、という考え方に基づいて整理されています。参加者一人一人が「自分が面白い」行為を持ち寄って、互いのそれを絡め合わせて楽しむ、のが「自由に遊ぶゲームプレイ」。ゲームマスターが「自分が面白い」ことを持ち込み、プレイヤーはそれに合わせて楽しむ、のが「管理して/されて遊ぶゲームプレイ」です。ここでの「自分が面白い」は、xenothさんの「自分だけが面白い」=「他の人はつまらない」とは異なるもので、「皆が面白い」も含まれている、と考えてください。

その上で、上記記事でのご質問にお答えします。

鏡さんは、プレイヤー全員が、「心から面白くない」「ダンジョンに入りたくない」と思うような状況でも、GMの言うことを拒否しないのが、推奨する管理のプレイスタイルなんですか?

はい、私が言う「管理して/されて遊ぶゲームプレイ」とはそういうものです。

「ダンジョンに入れ」と言われれば、入る。「謎を解け」と言われれば、解く、というか解けるように努力する。プレイヤーはそのように協力することで、ゲームマスターが「これなら面白いだろう」と思う展開を成立させていくのです。

「自由度が高い」場合は、「ダンジョンに入るルート」と「ダンジョンに入らないルート」とが用意されているかも知れません。そうであるならゲームマスターは、何らかの方法でそのことをプレイヤーに伝えておくべきです。

本当にそれを推奨するなら、鏡さんは、そういうプレイをした経験はあるのですか?

はい、あります。

ゲームマスターが並べた「ハンドアウト」を「どれもつまらない」と思っても、どれかひとつを選びます。ゲームマスターが語る「今回予告」を「つまらない」と思っても、「そんな話じゃつまらないよ」とは言いません。ゲームマスターが「これなら面白いだろう」と提供してくれたものを素直に受け入れ、楽しみます。

変更の提案はしません。「ハンドアウト」や「今回予告」には、ゲームマスターの「自分が面白い」という想いが込められていますから、まず遠慮があります。プレイヤーの発想との摺り合わせは、下手をすればゲームプレイに支障を与えかねませんし、上手くいっても手間と時間の無駄のように思われますので。