定義は独自に決めてよい、という意見

次の二論文あたりを参考に、「定義」というものについて、私の考えを述べます。結論は、表題の通りなのですが。

あらましとしては、まず前者において高橋志臣さんが「会話型RPG」の「プレイング」を分析するために、「量的情報」と「質的情報」、両者に基づく「量的プレイング」と「質的プレイング」、シナリオにそれらを増補した「ギミック・マニュアル」といった概念を定義されました。これに対し後者においてxenothさんは、それらの定義における用語が不適切である、と指摘されました。なるべく、既に周知された用語を使うべきだ、と。(詳細は上記論考でご確認ください。)

xenothさんの論旨にも一理あるのですが、高橋志臣さんの論考について述べるのであれば、xenothさんは高橋さんの定義をそのまま用いるべきだ、というのが私の意見です。

例えば「量的情報」について。高橋さんは、能力値を「量的情報」、街の人口を「質的情報」として分類しています。xenothさんは、「量」と「質」とに分けるのであれば、能力値も人口も「量的情報」に入りそうだ、だからその用語は不適当だ、と述べています。明確に定義されている内容を、自分の語感と合っていないからと言って問題視するのは、そうする方が不適切である、と私は判断します。

なぜ不適切かというと、高橋さんの論考がその定義に基づいている以上、その定義をそのまま用いなければ、その論旨を理解できないからです。理解する努力を怠っては、その批判もすべきではありません。どうしてもその定義を用いたくないなら、自分の定義で自分の論考を書けばよいでしょう。それは、高橋さんの論旨とは完全に独立した、xenothさん独自の理論となりますが。

もっとも、「定義」批判が一切許されないわけではありません。「何故、人口を質的情報に含めたのか」などと問うていたなら、建設的な議論に発展したかもしれません。

さて、「定義」の目的は、複数の者の間で、共通認識(コモンセンス、常識)を築くことにある、と私は考えます。何らかの議論(ディスカッション、意見交換)を行うなら、議論への参加者同士で。一緒に卓上RPGを遊ぶなら、その卓を囲む者同士で。同じ地域で生活するなら、住民同士で。ある定義を共有する者の集まりが、定義された内容の有効範囲となります。日本人にとっての常識(共通認識)が、外国人には必ずしも通じないように。

「定義」をこのように「定義」すれば、「定義」は誰もが自由に、独自の用語で決めてよい、ということになります。特に、自分の体験と考察から生まれた論考を述べる際には、その論旨とまったく同じ用語が既に無ければ、あるいは近いものはあってもその定義が不明瞭であれば、独自用語を作った方が、むしろ誤解を避けることができましょう。このように考えた上で、私もしばしば自分なりの独自用語を定義し、使っているのです。

もちろん、自分勝手な定義は避けるべし、という意見があることも承知しております。例えば学問の世界には、学派やら学閥やらがありますから、その中で既に共有されている認識に従わなくてはなりません。さもなくば、不毛な議論を生む、分かり難い、○○先生に逆らう気か、などと非難されてしまいますので。つまり、そういう者の集まりでは、「定義」の「定義」が違うわけです。

何にせよ、私は卓上RPGを学問ではなく娯楽だと考えておりますので、他人の定義そのもにはなるべく口出しすべきではない、むしろその定義を用いてその論旨を論うべきだ、と申し上げる次第です。...しばしば口出ししたくなる、時にはしてしまう自分への、自戒と自省と共に。