概念に用語を与えるのは、用語の入替とは違うこと

xenothさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

「定義」とは、特に独自用語によるそれは、まず「概念」があって、それに名前を与えるのです。かつて、ある遊戯が発案された時、それを表現するために「ロールプレイングゲーム」という名前が与えられたように。

そのような「定義」と、既に適切な名称のある概念を、別の言葉で言い換えることとは、まったく異なる行為です。上記記事においてxenothさんは、次のような事例を示されました。

主観を「ポンポコピー」、客観を「ポンポコナー」、わかりやすいを「ポンポコパー」、わかりにくいを「ポコポンピー」と呼ぶこととします。なんで、このようなわかりにくくて判別しにくい独自用語をxenothが選んだのかをゆっくりお楽しみの上、解釈ください

「主観」と同じ概念なら、「主観」と呼べばよいのですよ。「主観」に似ているが厳密には違う「概念」で、その違いを無視して「主観」と呼んだら読者が混乱するかもしれない、いっそ「ポンポコピー」と称した方が無難だ、と著者が判断したなら、「ポンポコピー」でも構いません。読者は、著者の判断を信じて、読解に努めるでしょう。

第一、誰がわざわざ「わかりにくくて判別しにくい」用語を使うものですか。著者は、これなら分かってもらえるだろう、と著者なりの「主観」で判断して、定義するのです。それが読者の「主観」とは異なっていたとしても、著者を責めるべきではありません。そもそもの高橋志臣さんだって、読者に「わかりにくくて判別しにくい」ことを期待してなどいなかった、と推察します。

ついでにいうと、より相応しい用語が後で見つかったなら、そうと断った上で、定義は幾度でもやり直すことができます。というか、定義にせよ論考にせよ、気軽なものであった方がよろしい。考えること、そしてそれを述べることに、臆病にならないように。