卓上RPGに見る三種類のドラマ

論考「『北斗の拳』に見る三種類のドラマ」で挙げた、「ワールドセッティングの上のドラマ」「キャラクターの間のドラマ」「シチュエーションの中のドラマ」の三者は、卓上RPGのゲームプレイにおいても語ることができます。もちろん卓上RPGは、小説やマンガ、映画などとは異質な構造を持ちますから、そこに生じる「ドラマ」もまた別物です。

  • 小説などでは、それに能動的に関わる者(作家、監督、俳優など)と、受動的に関わる者(読者、視聴者、評論家など)とがいる。卓上RPGでは、能動的に関わる者(ゲームデザイナー、ゲームマスター、プレイヤーなど)のみがいる。
  • 能動的に関わる者は、小説などでは「ドラマ」を作る。卓上RPGでは「ゲームプレイ」を作り、それが劇的であれば「ゲームプレイ」であると共に「ドラマ」である、と評価される。
  • 受動的に関わる者は、小説などでは「ドラマ」を楽しみ、それが劇的でなければ「ドラマ」として失敗作と評価する。卓上RPGでは「ゲームプレイ」が劇的でなくとも、失敗とは評価されない。

卓上RPGの遊び手が作るのは「ゲームプレイ」であって、「ドラマ」ではありません。作られた「ゲームプレイ」が「ドラマ」であるか否かは、その結果によって評価されることで、意図的に決められることではないのです。もちろん「ドラマ」を好む参加者は劇的展開になるよう努めるでしょうが、他の参加者がそれを望まないならば、あるいは望んでも相容れない努力をしたならば、その「ゲームプレイ」は「ドラマ」の体をなしません。卓上RPGにおける「ドラマ」とは、努力や協力の成果ではなく、多分に偶然の産物です。

「三種類のドラマ」も卓上RPGにおいては、「三種類のゲームプレイ」の結果として生じたり、生じなかったりします。例えば「シチュエーションの中のドラマ」なら、まず「シチュエーションの中のゲームプレイ」があり、それが劇的展開となった場合にのみ「シチュエーションの中のドラマ」でもあった、と評価されるのです。

  • シチュエーションの中のゲームプレイ」では、何らかの状況設定が優勢となる。ひとつのダンジョン、ひとつの事件、謎や難題、戦争や恋愛など。キャラクターはその状況に関わる人物であり、ワールドセッティングはその状況を成立させる以上には出しゃばらない。そのような状況に集中した「ゲームプレイ」が劇的展開となったならば、それは「シチュエーションの中のドラマ」であったことになる。
  • キャラクターの間のゲームプレイ」では、誰がしかの人物設定が優勢となる。出生や性格が定められたキャラクター(PCとNPC)と、各々の関係など。ワールドセッティングはその人物と矛盾さえしなければ良く、シチュエーションは人物間のやり取りによって生じる。それらの人物に集中した「ゲームプレイ」が劇的展開となったならば、それは「キャラクターの間のドラマ」であったことになる。
  • ワールドセッティングの上のゲームプレイ」では、ある世界設定が優勢となる。その世界の物理法則や歴史、地理や国家、文化や宗教など。シチュエーションはその世界に起こりうるものであり、キャラクターはその世界にいるであろう人々である。そのような世界に集中した「ゲームプレイ」が劇的展開となったならば、それは「ワールドセッティングの上のドラマ」であったことになる。

「三種のゲームプレイ」のどれを遊ぶかは、参加者間で必ずしも意識されず、共有もされていません。「ゲームプレイ」を楽しむ分にはそれで問題ありませんが、意識し、共有しておかないと、そこに「ドラマ」が生じにくくなります。

シチュエーションの中のゲームプレイ」は、初対面の者同士でも容易な遊び方ですから、コンベンションなどで行われる一期一会の単発プレイに最も向いています。参加者全員がそのシチュエーションに集中することで、行動の幅が狭められ、やり取りの密度も濃くなり、その中で「ドラマ」が生じやすくなります。

同じキャラクター(PCとNPC)によるキャンペーンプレイの回数を重ねていくと、自然と「キャラクターの間のゲームプレイ」に至ります。キャラクターの設定以上に、その行動が記憶として積み重なって、そこに人物の本当らしさ(リアリティ)が生まれます。その本当らしさの共有によって、「ドラマ」が生じやすくなります。

ワールドセッティングの上のゲームプレイ」は、最も難度の高い遊び方です。ワールドセッティングが架空の世界であれ、現実や史実であれ、その世界の本当らしさ(リアリティ)を共有しようとする意欲が参加者に求められます。その上でキャンペーンプレイの回を重ねれば、その世界らしい「ドラマ」が生じやすくなります。

なお、本当らしさ(リアリティ)を掴み取ることは、知的というよりは情的な行為のため、技巧面の説明は困難です。強いて言えば、自身の社会経験や人生経験を投影して解釈すること、そして参加者間でのコミュニケーションの中で共有していくこと、くらいでしょうか。この問題については丁度、玄兎さんがブログ「ペテン師の戯言。」にて考察しておられましたので、ご紹介いたします。

最後に。上記「卓上RPGでは...」で想定されない「受動的に関わる者」が、我が国の卓上RPGにおいては存在します。即ち「リプレイの読者」であり、リプレイを「ドラマ」として楽しむ者です。しかしながら、もし「リプレイの読者」の視点のまま、それと同じ面白さを「ゲームプレイ」に求めても、期待は大抵裏切られます。それ故、何らかの「ブレイクスルー」が必要となったのです。この件について、別途論考としてまとめるかも知れません。