System以外でのTRPG信仰

前回、ゲームシステム「System」がどのような信仰(お約束)を前提として、どのように遊ばれるのか、私の解釈をまとめてみました。再掲すると、次の通り。

  1. 「物語」の背景には「構造」(Structure)がある、と参加者全員が信じる。(構造主義)
  2. ゲームマスターは「物語」を「話の構造化」「ワールドガイド」等の形式に分解する。
  3. 「話の構造化」「ワールドガイド」等によって、「構造」が参加者全員に暗示される。
  4. 暗示された「構造」に従って、プレイヤーも「イベント表」「判定ルール」等を作っていく。
  5. 「構造」に従う参加者各人の自由な発想により、「構造通りの物語」が完成する。

このように、何かを「信じる」ことから始まる図式は、「System」だけに限ったことではありません。卓上RPG(Table-top RPG、和製英語ではテーブルトークRPG)のあらゆるゲームプレイは、何かを信じずには、遊ぶことができないのです。もし「私は何も信じていない」という者がいるなら、それは自分の先入観を「真理」や「当たり前」と思い込んで、自覚していないだけです。

今回は、他のゲームプレイでは何を信じて遊んでいるのか、その二例を挙げます。まず、次のようなもの。

  1. 「物語」には各登場人物が「なすべきこと」がある、と参加者全員が信じる。
  2. ゲームマスターは「物語」を、「ハンドアウト」や「シーン」等の形式に分解する。
  3. 「ハンドアウト」「シーン」等により、「なすべきこと」が参加者全員に暗示される。
  4. 暗示された「なすべきこと」に従って、プレイヤーはキャラクターの行動を決める。
  5. 「なすべきこと」に従う参加者各人の協力により、「予定通りの物語」が完成する。

この場合、キャラクターが「なすべきこと」はシナリオで決まっており、それをゲームマスターから伝えられたプレイヤーが実行することで、「予定通りの物語」を完成させることが、楽しいゲームプレイである、と信仰されます。「予定通りの物語」は、必ずしも一本道ではありませんが、予定された範囲から大きく逸脱することは忌避されます。

「なすべきこと」をしなくてはならない(と信じている)のですから、「なんでもできる」「何をしても良い」などと言われては困ります。「なすべきこと」をせず、好き勝手に振る舞ったら、「予定通りの物語」を無茶苦茶にしてしまうではありませんか。「何をしても良い」では「何をすれば良いか分からない」から、「なんでもできる」では「何もできない」ことになります。

このような遊び方は、FEAR型「ハンドアウト」やTORG型「シーン」等が導入される以前からありました。かつて私もゲームマスターとして、どうすればプレイヤーを自分の思いのままにコントロールできるか、と悩んだものです。「誘導」ならともかく、「ぶっちゃけ」による「なすべきこと」の明示は、ゲームマスターの我儘として嫌われましたから。当時「ハンドアウト」があれば、私もその路線を続けていたかも知れません。

もう一例は、ある意味、上記二例の対極に位置します。

  1. ゲームプレイの結果が「物語」と似ている必要は無い、と参加者全員が信じる。
  2. ゲームマスターは世界設定や他の資料からネタを集めて、シナリオを組み立てる。
  3. プレイヤーも世界設定等から、キャラクターの行動決定に役立ちそうなネタを集める。
  4. ゲームマスターが提供するネタを利用し、プレイヤーはキャラクターの行動を決める。
  5. 参加者各人の自由な発想により、ゲームプレイの結果は「予期せぬ物語」となる。

「構造通りの物語」と「予定通りの物語」との共通点は、ゲームプレイの前に「物語」がある、ということです。それらに対して「予期せぬ物語」は、ゲームプレイに先行するものではなく、ゲームプレイの結果、偶然の産物でしかありません。

できあがった「予期せぬ物語」は、小説や映画やリプレイのように、他人を楽しませるような「物語」とはならないでしょう。それで良いのです。このようなゲームプレイの楽しさは、参加者たちの占有物であって、他人に知らしめるものではありませんから。

さて、上記三者は、各々異なる信仰(お約束)を前提としています。「一神教」的に、ひとつの信仰のみ正しく、他はすべて間違っている、とすれば、互いへの不満から争いが生じます。「多神教」的に、様々な信仰があり、その時々に都合の良いものを選べばよい、とすれば、すべてが選択肢となります。「一神教」か「多神教」か、どちらの姿勢で遊ぶのかは、一人一人が自由に選びましょう。

ちなみに、「普通」や「当たり前」が褒め言葉で、「普通でない」や「解らない」は貶し言葉である、というのは、「一神教」的な思考です。「多神教」では、異質さは喜ばしいことです。選択肢が増えるのですから。