卓上RPG六つの道 (1997年執筆)

本論考は、1997年10月16日に発表されたものです。文中の趣旨が、現在の筆者の考察とは異なる場合もありますので、ご注意願います。

私たちが歩いている道は同じなのでしょうか?
私たちが目指している山はひとつなのでしょうか?

はじめに

私たちは卓上RPGを楽しむ仲間です。私たちは、ゲームサークルで、喫茶店の片隅で、またWWW上の掲示板上で、日夜熱い議論を交わしています。「どうすればもっと面白いRPGをプレイできるのか?」「RPGをどのように遊ぶべきか?」「最高のRPGはどのようなものだろうか?」同じ意見の者とは確認し合い、違う意見の者とは時を忘れて論戦を続けました。

私も卓上RPGを始めてからの10年余りの間、しばしば「究極の卓上RPG」を夢見て他の愛好家と真剣な論議を続けました。私は私なりの「理想」を持っていたからです。そして相手も。

しかしごく最近のことですが、私はそれをもう一度見直さなければならないのではないか、という考えを抱くに至りました。なぜなら、「究極のRPG」「理想のRPG」「最も面白いRPG」は一つである、という私にとっての大前提そのものを問題視せねばならない事に気づいたからです。

私が以下に述べることの大部分は、既にどこかで耳にしたことかもしれません。自身の経験の中から気付いている方もいることでしょう。しかしこのことについてもう一度考え直し、行動に表すことを検討していただきたいのです。

参考となる例題

例題1「Advanced Dungeons & Dragons」にて。

平和な国の辺境に邪悪な軍隊が終結しつつある。彼らと戦うためには、王の権威の象徴でもあり、また士気を高めてくれる魔法の杖が必要だ。しかし魔法の杖が安置されている地下神殿にはすでに魔物たちが先回りしているらしい。偵察し、可能ならば杖を奪還するよう依頼されたあなたと仲間たちは、地下神殿の場所が記された古地図を渡された。どうする?
  • 早速地下神殿に向かう。
  • 街で情報を集める。
  • 古地図に「Detect Magic(魔力感知)」の呪文をかける。
魔法使いが試しに「Detect Magic」をかけると、その地図は魔力反応を示した。しかし彼のレベルでは「Dispel Magic(魔力解除)」の呪文を使う事はできない。どうする?
  • 全員の金を集め、その半分をはたいてでも、NPCに呪文をかけてもらう。
  • 力不足では仕方ないし、金も勿体無い。とりあえず偵察に行く。

例題2「クトゥルフの呼び声」にて。

あなたと仲間たちは探索の末、下水道の奥の空間で、ローブを着た者たちが怪しげな儀式を行っているのを発見した。どこか人間離れした動きをするローブの者たちは、後方の物陰にいるあなた方にはまったく気付いていない。やがて見知らぬ女性を連れてきた連中は、彼女の服を脱がし、祭壇上でいけにえにしようとする動きを見せた。どうする?
  • 女性を助けに走る。彼女と共に逃げるための作戦を講じつつ・・・。
  • 人数的に勝ち目が無い。警察を呼ぶため、そして保身のために急いで戻る。
  • この連中は邪神崇拝の魔性の者だ。手榴弾を投げて人類を守る。

これらは両方とも、私が過去に体験したプレイの一場面です。あなたならどうしますか?選択肢にこだわらず、考えてみて下さい。

ちなみに私のキャラクターは、どちらの場面でも、選択の後に死亡しました。前者ではマスターの手にかかって。後者では他のプレイヤーによって。(大体見当がつくでしょう。)

何故私のキャラクターは死んだのか?それは私にとっての「RPG」における行動が、他の者にとっての「RPG」における「すべき行動」と異なっていたからだ、と考えると納得がゆくのです。

卓上RPG六つの面白さ

卓上RPGのプレイは、幾つかの複数の面白さを内包しています。その内訳の表現には幾つもの方法があるでしょうが、私は以下の六つにまとめました。

  1. シナリオの(最終的な)目的を達成すること。
  2. シナリオの(途中の)課題(敵、謎、罠、情報収集など)を解くこと。
  3. 自分のキャラクターを他の参加者に対して演出すること。
  4. キャラクターが置かれた状況を想像し、その行動を決めること。
  5. その世界やゲームが演出する雰囲気(幻想、恐怖など)を味わうこと。
  6. 仮想世界に生きることで、現実とは異なる世界を体験すること。

最初の二つは「シナリオ」を、次の二つは「キャラクター」を、最後の二つは「ワールド」を、その面白さを引き出す源泉としています。分かり難いかもしれませんが、「戦闘での駆け引き」や「交渉での妙」、「自分のキャラクターの格好良さを空想して」というのは上記のいずれかに含まれます。「友達との雑談」「ギャグを飛ばす」などは、RPG自体に依る面白さではないので除外します。

誰しもが、上記の六種の面白さを、大なり小なり味わいながらプレイしているであろうと推察します。しかし、どれが「大」で、どれが「小」か、となると人によって異なるに違いありません。参加者がどれを最も好み、またどれを軽視するかが人によって大きく異なることは、既に少なからず経験を積んだ方ならご承知でしょう。ご自身がどれを選んでいるかもお分かりでしょう。

これらの違いは、しばしば「個性」なり「好み」なりといった言葉で、片付けられてきました。「好みは人によって違うから仕方が無い」「比較的多くの人が、比較的多く楽しめるよう努力しよう」「自分の好みばかり押し付けるのは間違いだ」と。

しかし、本当にそうなのでしょうか。

卓上RPG六つの遊び方

参加者が一丸となってシナリオに取り組み、そのプレイを全員で楽しむことを、誰もが望みます。誰もが手に入れて当然の満足だと考えているのではないでしょうか。

しかし実際のプレイは必ずしもそうではありません。意見の対立が発生して進行が不必要に中断し、退屈あるいは不愉快な時間を過ごしたことはありませんか?一応は時間一杯までプレイし終えても、どこか期待していたほどの満足感がなかったことは?

面白かったプレイとつまらなかったそれとの間を説明するのに「ノリ」という言葉を用いる者もいます。しかし私は、プレイ中の問題は参加者の「遊び方」が異なった場合において発生する、という結論に至りました。

そこでまず、私が想定する卓上RPGの六つの「遊び方」を以下に挙げることとします。これらは、前章で挙げた「六つの面白さ」の中で、特にどれを最優先とするかを基準とするかによって分類したものです。各々について、それが「最優先するもの」と「特徴」「好むシナリオの傾向」そして、他の型との間などにおいて発生しうる「問題点」を示します。

1、目的追求型

シナリオの最終的な目的を達成することを最優先します。

そのシナリオで提示された「成功」「勝利」「ハッピーエンド」の条件を満たすことに向けて全力疾走し、最短かつ合理的な筋道を立てることに全力を尽くします。より有効な作戦を立て、実行し、そしてマスターの与えた難題に勝利した瞬間に最高の喜びを感じるのです。

最終目的(あるいは勝利条件)が早くからハッキリと明示され、また様々な手を講じる余地があるシナリオを好みます。

提示された方法よりも有効な手が他にあると判断すれば、当然のようにそちらを選ぶことを主張するので、"シナリオ通りに"進めようとする者と対立することがあります。また目的達成と関係の無い行為に時間をかける者には苛立ちを感じるでしょう。

2、解答捻出型

シナリオの途中で障害となる課題を解決していくことを最優先とします。

すなわち、敵を倒し、謎を解き、罠を破り、情報収集をこなすことなどを一つ一つくぐり抜けていく過程を最も楽しいと感じるのです。言いかえれば、マスターが準備した「問い」に対して「正しい答え」を出すことを楽しむのです。

解くべき問題(敵、謎、罠など)の、まず質が、次に量が、面白いシナリオの条件となるでしょう。また凝った「答え」に対する正当な評価も重視します。

マスターが準備した「問い」を尊重しますので、それを損なうような行為は、それがどれほど合理的なものでも、すべきでないと考えるでしょう。シナリオの形を尊重する余り、発想の自由さを失う恐れもあります。また「正解の無い問い」には反感を覚えるかもしれません。

3、人格演出型

自分の仮想人格(キャラクター)を上手く演出する楽しみを最優先します。

自分が受け持ったキャラクターの外見や内面を、他の参加者に対して上手く演出することこそ最高の面白さであると考えます。架空の人物の"生"を皆で共感しようとするのです。性格、考え方、行為、癖などの表現をより効果的にするために、流暢な描写や役者の如き演技をすることにも力を入れる傾向があります。

自分のキャラクターを演出する機会、特にNPCとの交渉などが、回数的にも時間的にも多いシナリオを好みます。またPC、NPCを問わず、深い人格設定と上等な描写・演技を期待します。

キャラクターの演出の足りない参加者や、自分の演出に対してうまく反応できない参加者に対してプレッシャーをかけがちです。また、シナリオの進行よりも演出の時間を長く欲しますので、シナリオの展開にスピード感を求める者には反感を抱きます。また、仮想人格への思い入れの強さが問題を引き起こすこともあります。

4、行動決断型

キャラクターが置かれた状況での「行動」を決める瞬間を、最優先の楽しみとします。

提示された状況において、その場面を想像し、その中でどのような行動を取るかを仮想体験する、その瞬間を最も面白いと感じます。非日常的で危険な状況におけるそれを好みますが、日常的な場面でも楽しみます。行動を効果的に伝達するために、その描写に力を入れます。

行動判断をする機会の多いシナリオを期待します。判断材料となる状況描写の緻密さや行動結果の自由さを求めますが、最も重視するのはその行動に対する正当な評価=反応(リアクション)です。

キャラクターの行動と結びつかないプレイヤーの描写や、行動の判断材料とならないマスターの描写を、軽視しがちなので、それが原因で他の型の者の反感を買うことがあります。

5、雰囲気堪能型

そのゲーム世界が持っている雰囲気を味わうことを最優先します。

ゲームの舞台世界が演出する雰囲気(「~っぽさ」)を体感することを最高の喜びとします。独自の世界にインパクトが弱い場合は、ジャンルらしさ、即ち「ファンタジーっぽさ」「ホラーっぽさ」「SFっぽさ」などを目指すこととなります。また原作があればそれに基づくこととなります。

その世界・ジャンル独特の状況と、その雰囲気を醸し出すための情景描写を好むので、その機会の多さがシナリオの評価につながります。

他の参加者の行動やその結果にも「(ジャンル)っぽさ」を期待するため、それに反した場合には最悪説教を始めてしまう場合もあります。また強い先入観を抱いている場合には同じ型の者同士でも対立が起こりえます。

6、異世界体験型

仮想世界で行動することで、現実とは異なる世界を体験することを最優先します。

自分が異なる人格として異なる世界に生きること、それを味わうことこそRPGの醍醐味だと考えています。異世界の道を歩き、住人と話し、時代を感じる。現実世界を忘れて異世界の人生を束の間体験する楽しみを求めるのです。

シナリオにおいては、異世界演出のリアリティー=本当らしさを重視します。また、異世界体験の多さは異世界の設定に触れることに換算されるので、どれだけの架空設定と接触したかを端的な目安とすることがあります。その世界に生きるキャラクターの人生展開も重視するので、キャンペーンを最も好みます。

設定に対する強い指向は、他の型の者には冗長に感じられる場合があります。異世界における日常的な体験も大好きなので、先を急ぐ者との間には互いへの苛立ちが生じるでしょう。

以上に挙げた各々の型の者は、プレイヤーの時はそのように行動し、マスターの時はそのように相手が行動することを期待します。ただし、この分類には二つの注意点があります。

  1. どの「面白さ」を優先するかは、あくまで比較の問題です。「どちらか片方しか取れない場合にはどちらを選ぶか」という程度の差であって、そうでなければ誰もがおそらくは六つとも楽しんでいるでしょう。
  2. 仮に六つに分類しましたが、二番目以降にどれを選ぶかによって、実際にはより細分化されます。ですから、六つの内のいずれかに入った者同士でも必ずしも同じ遊び方とは限りません。

さてこれらの考え方を基に、私がこれまでに体験した、あるいは友人たちに聞かされた「楽しめなかったプレイ」を分析し直すと、そのほとんどは参加者が異なる「遊び方」を求めていながら、互いに譲らなかったことに原因があったと理解されるのです。

先の「例題」の章の最後の一文を少しく言いかえましょう。

何故私のキャラクターは死んだのか?それは私にとっての「遊び方」における行動が、他の者にとっての「遊び方」における「楽しむために取るべき行動」と異なっていたからだ、と考えると納得がゆくのです」と。

卓上RPG六つの道

「私たちは卓上RPGの遊び方において異なる指向を持っている」

「私たちはこのことを認識した上でRPGを遊ぶべきだ」

これらのことは「好みの違い」としては既に多くの人に認識されています。私の視点はいわばその焼き直しに過ぎません。しかしそれを「好み」ではなく「遊び方」と見るところに、新しい可能性が開かれうると私は考えるのです。「好み」には手を触れ難くとも、「遊び方」はそうでないからです。

前章で挙げた六つの「遊び方」を実際のプレイにどのように活かしうるか、またそれらを認識することで今後のプレイにどのような変化を与えうるかを次に考えてみます。

1、一つの「遊び方」の究極を全員で目指す。

一つの「遊び方」を選択し、全員でその道を究めようと全力を尽くします。別の「遊び方」を期待している者とは袂を分かつこととなりますが、その「遊び方」に惚れ込んだ者同士で努力を尽くすことで、遠くない将来に欲するものを手に入れられるでしょう。

2、「遊び方」の優先順位を決める。

ある「遊び方」を第一とし、他の何が次善であるかを決めます。その事情を公示し、第一のものを目指すことを薦めますが強制はしません。最初に了解を取るのですから、第一の型に従う者ほどに優遇されなくとも、大きな不満は感じないでしょう。

3、プレイの度に異なる「遊び方」を用いる。

「遊び方」をRPGのヴァリエーションとして捉え、セッション毎に「今回はこの型で」と決めてからプレイを始めます。幅の広いプレイを楽しむことが出来るでしょう。

4、参加者の希望により幾つかの「遊び方」を選択する。

参加者が各々どの「遊び方」を好むか確認した上で、幾つかのそれを目標とすることを全員で了解します。人数が多いと結果的に次の項と同じ事となる可能性があります。全ての参加者に柔軟さが要求されるでしょう。

5、すべての「遊び方」を満足させる。

どのような参加者がいても大丈夫なように、どの「遊び方」の者でも楽しめるような工夫を尽くします。上手くいけば理想的なプレイとなりえます。失敗すればただの自己犠牲ですが。

6、究極の「遊び方」を全員で目指す。

前章の六つの「遊び方」は、前々章の六つの「面白さ」のどれか一つを最優先させる、という視点から導き出されたものです。私の経験や考察の範囲ではそう考えるに留まりましたが、すべての「面白さ」を同時に満足させる「遊び方」があるかもしれません。その道を歩もうとする者もいるでしょう。

以上が、現在私が考えうる卓上RPGの六つの「道」です。

結論

卓上RPGのプレイには、複数の面白さがあります。その面白さのどれを優先するかで「遊び方」も異なります。自分がどの「遊び方」を好み選んでいるかを明確に認識し、他の者のそれを考慮に入れることで、意識的に「全員で楽しむ」ことが可能となる。

・・・これが私の結論です。

さいごに

私は今まで卓上RPGの究極は一つであると考えていました。そして一つの「正しい」遊び方を全員が学ぶことで目標に達することが出来ると。白状しますが、私は長い間、自分がつまらないプレイをするのは他の参加者のプレイに非があるからだと一方的に判断していたのです。私と違うプレイを心底楽しんでいるその姿に一抹の迷いを感じながら。

近年「ノリ」という言葉が多用されるようになりました。「ノリが良い」と面白いプレイになり、「ノリが悪い」とつまらなくなる、と。私が最初から反感を持っていたこれらの表現が意味するところは即ち、多数派の「遊び方」に誰もが歩調を合わせるべきだ、という思想であると考えます。これは、自分たちと違う者は切り捨てる、ということに他なりません。そこにあるのは個性を切り捨てた「全体」であって、娯楽の究極とはあまりにかけ離れたものではないでしょうか。

異なる者が共存するために必要なことは、その「異なり」を自他共に認めた上で、他のそれを受け入れることであると考えます。愚考の末にやっと「異なり」に気付いた私が次に考えなければ成らなかったのが、「異なり」の組み合わせ方であり「異なり」の調和、即ち六つの「道」でした。

私はこの論の中で、卓上RPGの遊び手の間の「異なり」を強調しました。この「異なり」の強調が、ただでさえ遊び手の減少が叫ばれている現状において、更に派閥を形成させようとする危険思想と捉えられる恐れはあるでしょうか。もちろんそのようなことを私は望んではいません。むしろ、自分と異なる者を受け入れるという動きが、新しいユーザー層を開くことを期待しています。多様性の中にこそ次の可能性があり、多様性を飲み込むことでその可能性を開くことが出来るのです。

長文となった一方で、細部に言葉の足りない箇所があるやも知れません。再整理の意を込めて、別ページの「付録」に「プレイヤーがすべきこと」「マスターがすべきこと」をまとめておきます。端的な心構えを短く箇条書きにしたものです。

この文が卓上RPGの「究極」を目指す方の参考になれば幸いです。

付録:プレイヤーがすべきこと、マスターがすべきこと

「プレイヤーがすべきこと」

  • 自分が何を求めているかをハッキリと認識する。
  • 他の人が自分とは異なるものを求めているかもしれないことを心に留めておく。
  • 相手が求めているものを妨害しないように配慮した上で、自分が求めているものを追求する。
  • プレイ前に自分の「遊び方」を表明し、互いに確認し合うことができれば最良。

「マスターがすべきこと」

  • 自分がプレイヤーに何を期待しているかをハッキリと認識する。
  • 実際のプレイヤーたちが自分とは異なるものを求めているかもしれないことを心に留めておく。
  • 用意されたシナリオにおいて、プレイヤーがどの「遊び方」を指向しても、ある程度は対処できるように準備しておく。または、複数の「遊び方」を対処できるようなシナリオを準備する。
  • プレイ前に、プレイヤー同様、マスターも一参加者として自分が基本としている「遊び方」を提示できれば最良。