正しいRPG (2000年執筆)

本論考は、2000年4月10日に発表されたものです。文中の趣旨が、現在の筆者の考察とは異なる場合もありますので、ご注意願います。

卓上RPGはその遊び方において"正しいRPG"と"間違ったRPG"の二つに分けられる。

1、" 正しいRPG"と"間違ったRPG"

卓上RPGはその遊び方において"正しいRPG"と"間違ったRPG"の二つに分けられる。"正しいRPG"は誰もが目指し実践していくべき遊び方である。"間違ったRPG"は存在してはならない、排斥されるべき遊び方である。このコラムではこの"正しいRPG"の特性や構造について、また卓上RPGの現場でそれを実現するための実践法について述べる。

しかし本題に移る前に明確にしておきたいことが一つある。それは、いわゆる"好み"の問題である。卓上RPGは、そのジャンルやルールシステム、舞台世界設定や展開の傾向などによって、千差万別の嗜好に合わせることができるようになっている。まず"正しいRPG"の評価基準は、それら嗜好とは無関係であることを明言しておく。ジャンル等の違いによって"正しいRPG"であるか"間違ったRPG"であるかが決まる訳ではない。同じ嗜好に基づく遊び方、例えば同じゲームシステムで同じシナリオを遊んだとしても、別の部分次第で"正しいRPG"であったり"間違ったRPG"となったりしうるのである。

後述する事項に留意すれば、現行のいかなる遊び方も"正しいRPG"となりうると私は信じている。卓上RPGに起こり得る諸問題の解決方法として、どうか耳を傾けていただきたい。

2、"正しいRPG"の特徴と例示

"正しいRPG"とは何に対して"正しい"のか。それは"参加者全員が共に楽しみ、満足すること"に対してである。卓上RPGとは、複数の参加者がひとつの卓を囲み、その想像力を相互に働かせ、かつそれを相互に描写し合うことで、ひとつの"仮想世界"を共有する遊戯である(これらのひとつでも違えればその遊びには別の名前が与えられることとなるだろう)。遊戯である以上参加者全員に一定以上の満足が与えられねばならない。遊びの場への参加者各人にとって最大の留意点は、この"全員で楽しむ"ことに他ならない。この大前提が堅固に保たれている遊び方こそ、"正しいRPG"である。

では"間違ったRPG"とは何か。それは、"全員で楽しむ"ことの優先順位を(知ってか知らずか)二の次に落とした遊び方のことである。卓上 RPGにはそれを楽しむための"道具"が種々揃っているが、その本来の用途を忘れ、"道具"そのものに喜びを見出してしまう例がプレイの現場に時折見受けられる。"全員で楽しむ"ことを後回しにするとは、己独りの喜びのために他の参加者を"道具"扱いすることに他ならない。

両者の例をここで挙げよう。

  • 自分とは(似てはいるかもしれないが)異なる人格を体験することは、卓上RPGの基本要素のひとつであり、それ自体大変楽しいものである。その人格設定を参加者全員が楽しめるように柔軟に活用できる者は"正しいRPG"を実践していることになる。しかし、ある人格設定が参加者の誰かの満足に支障を来たした場合、そしてそれでも人格設定の遵守を強行するならば、その者は"間違ったRPG"を行ったこととなる。人格設定はそれを決めている参加者独りのものでしかないからである。
  • 私たちが住むこの世界と(似てはいるかもしれないが)異なる世界を体験することは、卓上RPGの基本要素のひとつであり、それ自体大変楽しいものである。世界の雰囲気を活かすような行動描写等によって参加者全員がそれを楽しめるように工夫する者は"正しいRPG"を実践していることになる。しかし、世界設定やその雰囲気に酔う余り、その異世界の活用が他の参加者全員の満足に支障を来たしていてもそれに気付かないならば、その者は"間違った RPG"を行ったこととなる。世界設定は参加者全員の共有物となるべきだが、全員の合意と共有するための努力無しにはそれは実現されないのだ。
  • 参加者各人の発想が繋がりあって、ひとつの物語が織り成されていく様は、卓上RPGの基本要素のひとつであり、それ自体大変楽しいものである。参加者の誰にとっても楽しかったプレイの"結果"として一編の物語ができる時、それは"正しいRPG"を実践していることになる。そう、物語はプレイの" 結果"であり、"目的"ではない。しかし何らかの物語を念頭において、それを作り上げることを"目的"とする遊び方は、"間違ったRPG"である。単なる結果であればそれは参加者全員の共有物だが、それを"こういう物語にしよう"とするのは個人の欲求に過ぎないからである。

以上三者は誤解を受けやすく、"間違ったRPG"になりやすい例であろうと私が考えるものである。では、"正しいRPG"となりやすい遊び方について次に記そう。

3、正しいRPGの構造

"正しいRPG"の構造について考える内、私はそれがあたかも人生について論じているかのようであることに気付いた。戯れにその喩えを交えつつ、"正しいRPG"となり易い遊び方の構造について述べよう。

まず、その卓を囲む参加者同士が協力し、全員が一丸となって楽しむのだと言う"決意"がなくてはならない。人生でも有意義に生きようという決意が先ず無くては、惰性の毎日となってしまうし、次に記すようなそれ自体が目的ではないはずのものに溺れ易くなろう。卓上RPGにかける"決意"は、その卓についた時の挨拶から始まるすべてのやり取りに誠意として表れるものである。目には見えないが、まずこの"決意"がそこに無くてはならない。

他方、卓上RPGの現場での具体的な要素として、"人格の想定"と"世界の体験"、そして"物語の創造"とがある。これらはRPGにとって無くてはならない三要素であり、人生における"衣食住"に当たるものである。ただし重要なことは、これらは必要なものではあっても、その目的では無いということである。それらを楽しむのは良いが、それに溺れて本来の目的よりも優先させてしまってはならない。

基礎的なことではあるが、"人格の想定"、"世界の体験"、"物語の創造"の三者は原因、過程、結果の関係にある。参加者は自分と異なる人格 (キャラクター)を想定し、それに基づいて決めた行動を描写する。次にその行動をルールシステム(及び"常識"という名の共同概念)に則って処理することで架空の世界を再現していく。最後に、それらの積み重ねが一篇の物語を形成していくのである。勿論ひとつひとつの段階の充実は全体の向上に繋がるから研鑚が推奨されるが、あくまで卓上RPGを形成する要素であり"道具"である。腕前自体に溺れては本末転倒と肝に銘じておきたい(溺れやすいことも確かであるが)。

さて、全員が一丸となって等しく楽しもうとしても、ただその掛け声だけでは上手くいかない。それを補うのが"課題"の提起である。この"課題" こそは内なる"決意"と現場の三要素とを結びつけるものである。人生でも大きな目標の達成の前には当座の目標を立てることが重要かつ現実的であるが、卓上 RPGでは"シナリオ"即ち"解決すべき問題の提示"がそれに相当する。共通の目標を立て、それへの解決に協力することは、複数の者が心を一つにする最も簡単かつ効率的なやり方なのである。

"課題"を立てたら、いよいよ具体的な行為に移る時である。

まず"課題"即ち"解決されるべき問題"との関係を築くことから始めよう。他の参加者の担当人格(キャラクター)との関係もそこで確認されねばならない(勿論、他の参加者との関係ではない。それは"仲間"と既に決まっている)。例えば、問題解決のための仲間なのか、仲間だから共に問題解決に当たるのか、などの選択である。なお、キャラクター同士が仲間とならない遊び方もありえるが、それには参加者全員に極めて高度な能力が要求されるから初級者は勿論、中上級者も避けた方が良いだろう。

プレイの過程では参加者間の会話が重要であるが、注意しなければならない点が二つある。ひとつは相手によって会話量が異なってはならないと言うことである。もうひとつは一参加者(マスターも含むプレイヤー)としての会話であるべきで、キャラクターとしてのもの(例えば声真似)であってはならないということだ。プレイ中、プレイヤー間のみならずマスターとプレイヤーの間でも頻繁に質問や相談がなされるべきなのだが、仮想人格にこだわる余りそれを疎かにする者が少なくない。頻繁な会話は情報の共有を助け、行動や計画などを協議することで全体の一体感を育むことができる。参加者としての会話がどれほど多く交わされたかがそのプレイの成功度を量ると言って良く、それを上手くかつ自然にできることが卓上RPGの中上級者の条件とも言えよう。

以上のような"決意"、基本要素の確認、"課題"の提起、現場での行為が組み合わさった時、そこにはとてつもなく面白い体験が出来上がる筈である。参加者全員の基本がしっかりできていれば、上記と形式が違っていても、面白い卓上RPGは可能であろう。が、最も簡単な形式は上記の如しと(少なくとも今の)私は考えているし、便の良い環境でこそ各人の能力なり特性が活かせるものである。まずは基本をおさえることをお薦めする。

4、おわりに

私が卓上RPGを始めてから今日までに十年余りの歳月が流れた。その間に楽しいプレイやそうでないプレイを数々体験してきたが、不満の残るプレイにはすべて同じ共通点があったことに気付いた。それこそが"参加者による参加者として会話量"の問題である。それが少ない卓では、キャラクターが同じ問題に対して時ですら参加者の間の一体感は乏しかった。各人が、自分が面白いと思う遊び方を勝手に念頭に抱き、勝手に行動し、勝手に満足していた。"つまらない"と誰も言わないのが暗黙の了解のようで、さもそうすれば面白さが保証されるかのようであった。

卓上RPGのあるべき姿を論ずる場ではしばしば、"楽しみ"は各人の"好み"に基づくものであり、一概に語ることはできないとの意見が見受けられる。しかしそれは間違っている。あらゆる嗜好を受け入れられる遊戯と言うのは理想的なようであるがそうではない。仮にそれが可能だとしても、各嗜好に応じた最適形に進化すべきであって、あやふやな形のままに"何でもできる"という看板を掲げては、誰も心底からは楽しめない遊びで終わることとなろう。

卓上RPGは、まず遊戯である。それも、複数の参加者を絶対的に要求する遊戯である。とすれば、参加者全員が楽しみ、またその楽しみ自体も参加者が複数いなくてはできないものでなくては意味が無い。複数性そして十分な時間という代価を払うに足る快楽が無くて、どうして卓上RPGが人の心を繋ぎとめることができようか?

書き終えてみて、このコラムはかなりの経験者を対象とした難解なものとなってしまったことに気付いた。また"正しいRPG"を遊び易いルールシステムについてなど、語り尽くせぬ部分も多々あるが、それらは今後の課題とし、このいささか長文に過ぎるコラムを終わりとしたい。加えて上記の内容は、既にそれを無意識に実現している方が読めば失笑を買うものだろう。一体感は卓上RPG以前からの友人との間ではそれは自然と身に付いていることであるし、" 正しいRPG"になりやすい構造に至っては基本以外の何物でもない。しかし、肌で知っていたはずのこのことを、頭で気付くには十年の歳月を要したのだ。それに免じてどうか諸氏も再考され、願わくば賢察(まぁつまり意見とかのこと)を大いに述べていただきたい。

願わくば、心の底から楽しい卓上RPGをいつも実現させるために。