「データゲーム」と「イメージゲーム」 (2003年執筆)

本論考は、2003年6月11日に発表されたものです。文中の趣旨が、現在の筆者の考察とは異なる場合もありますので、ご注意願います。

卓上RPGの「遊び方」を考える:判断処理の選択

はじめに

ゲームマスター主導型とプレイヤー主導型」など、卓上RPGの特性を二極に分けて考えるのは、私が以前から度々試みてきたことである。これらの概念のどちらが自分に向いているかを考えるかによって、自分に合った「遊び方」を探ることができる。

この論考では、特にプレイヤーがプレイ中に行う「判断処理」を二通りに分けてみた。

なお、文中の用語のほとんどは、私が便宜上創作したものである。

要約

  1. 「判断処理」には、データから決める方法とイメージから決める方法とがある。
  2. ほとんどのルールシステムはどちらでも遊べるが、向き不向きもある。
  3. 自分が普段やっているのはどちらか、自分に合っているのはどちらか、考えてみると良い。

「データゲーム」と「イメージゲーム」

卓上RPGのプレイにおいて、プレイヤーによる担当登場人物(PC)の行動などの「判断処理」には、データから始める方式と、イメージから始める方式との二つに分けられる。この論考では、前者を「データゲーム」、後者を「イメージゲーム」と呼び、各々の特徴などを比較してみる。

データに始まる「データゲーム」

データゲーム」における判断は、担当キャラクター(以下、PC)の能力データなどを「どのように使うか」と考えるところから始まる。決定された行動はデータと共に告げられ、そのルール処理が行われる。イメージはその後で描写されるか、省略される。

この方式の長所は「安定」である。楽しい時間を確実に過ごしたい遊び手に向いている。既に用意されたデータを用いて行動を決めるため、プレイヤーが行動を決めあぐねることは少ない。またプレイヤーの行動がある程度推測できるため、ゲームマスターも突拍子の無い発想に混乱することを避けやすい。

短所は、まずデータを憶えなくてはプレイそのものがままならないということである(データ学習義務)。また、参加者間でのデータ解釈の違いが進行に支障を及ぼすこともありえる(データ論争)。ルールブックをよく読んで憶えたり、データについての意見交換を面倒くさがる者には向いていない。

ルールシステムには、一定以上のデータ量と、それらの良質なバランスが要求される。

イメージに始まる「イメージゲーム」

イメージゲーム」での判断は、PCなどが「何をするだろうか」と想像(イメージ)するところから始まる。それはそのまま宣言された後、はじめてデータと結び付けられてルール処理される。データを用いず、イメージ交換だけで済ませてしまうこともある。

その長所は「自由」である。予測を超える展開を楽しみたい遊び手に向いている。遊び手本人の経験や発想がプレイに直接反映されるため、その者独自の展開が生み出される。ルールやデータは二の次となるため、それらに拘る余りプレイが紛糾することは少ない。

短所として、強いイメージに支配されてしまって、プレイそのものを暴走させてしまうことがありえる(イメージ暴走)。逆に、想像を超えた状況などでイメージを得ることができず、何もできなくなってしまう恐れもある(イメージ欠乏)。予定が覆ると、容易にパニック状態に陥ってしまう者には向いていない。

この手法に向くルールシステムは、データやルールが少ないか、摘要範囲に大きな余裕があり、発想に柔軟に合わせられるものである。

「データゲーム」と「イメージゲーム」の関係

「データゲーム」を好む者は「イメージゲーム」を「自分の想像に浸ってばかりいる」として嫌い、また逆に「イメージゲーム」の愛好者が「データゲーム」を「データばかりに拘っている」として嫌悪することがある。

しかしながら「データゲーム」と「イメージゲーム」とは常に相性が悪いわけではなく、片方で発生する問題をもう片方が抑える性格も持っている。「データ学習義務」はベテランが不慣れな者のイメージに合わせることである程度軽減でき、「データ論争」はその場は誰かのイメージに合わせることで一旦の終止符が打てる。網羅的なデータは「イメージ欠乏」への助け舟となる一方、「イメージ暴走」に対する足枷にもなりうる。

各「判断処理」の特性を理解し、補完的に用いるのが最善であろう。とはいえ、うまくバランスを取ることは容易でないので、あらかじめ主従関係を決めておくのが実際的かもしれない。

市販ゲームと、「判断処理」の向き不向き

卓上RPGの多くのルールシステムは、「データゲーム」と「イメージゲーム」のいずれでも遊べるようにできているが、向き不向きが存在する。以下、幾つかのゲームを挙げ、各「判断処理」との相性について述べてみよう。

(いわゆる3E以前の)かつてのDungeons & Dragons (D&D)は、クラスによって「判断処理」が分かれている。ファイターやシーフは「イメージゲーム」、クレリックやマジックユーザーは「データゲーム」の性格が強い。後者は呪文の有効活用が主眼となるためである。遊び手は、好きな「判断処理」に合わせてクラスを決めるのかもしれない。

それに対して、現在日本語版は出版されているDungeons & Dragons 3rd edition (D&D3E)は「データゲーム」の性格がやや強くなった。特技(Feat)という能力データをファイターなども活用するようになったためである。

クトゥルフの呼び声 (Call of Cthulhu)は、「イメージゲーム」向きのゲームである。「技能(Skill)」が多く用意されているが、行動を決める性質のものではないためである。なお私個人は、「クトゥルフ神話」からのイメージが強過ぎるので、むしろデータ面を再検討すべきだと考えている。

日本語版の出版が予定されているハーンシリーズのルールシステムであるハーンマスターは「イメージゲーム」向きである。なお、ハーンワールドは緻密な世界設定として有名であるが、設定は「イメージ」の源ではあっても、「データ」にはなりえない。

トーキョーNOVAやそれと類似する作品は、「データゲーム」だけを想定している珍しいルールシステムである。網羅的な「特殊技能(特技)」などによって高度にデータ化されており、「イメージゲーム」を行うことはおそらく不可能である。「データゲーム」としての完成度の高さにその愛好家は惚れ込むが、「イメージゲーム」愛好家は嫌悪感すら抱くかもしれない。

逆に「イメージゲーム」でしか遊べないルールシステムには、最低限の能力データしか提供されないものや、データをプレイヤーが自作するものなどが当て嵌まる。市販作品にはあまり例が無いが、キャッスル・ファルケンシュタイン (Castle Falkenstein)やEverwayなどが近いかも知れない。

結論:「判断処理」の選択が「遊び方」を決める

「データゲーム」と「イメージゲーム」とでは思考の手順が根本的に異なる。おそらく、はじめて順調にプレイした方式がその者の基本となるのではないか、と推測する。そしてまたそれが、好みのルールシステムを決めているとも考えられる。

自分が普段用いているのはどちらの「判断処理」かを考えていただきたい。そしてもうひとつのやり方についても。それによってプレイが広がることが期待できるし、少なくとも自分と異なる方式を闇雲に嫌悪することだけは避けられるであろう。

「判断処理」の選択は、好みのルールシステムを選び、また好みの「遊び方」を決めるのに用いることができる。今楽しんでいる「遊び方」の先を求めるならば、考えてみることは無駄にならないはずである。

鏡の好みは「イメージゲーム」

さて、私=鏡の好みの「判断処理」は「イメージゲーム」である。「データゲーム」も幾度か試し、楽しめることは分かったが、やはり「イメージゲーム」から得られる喜びを忘れられないのである。

よって、私がこれから「遊び方」を探る際に用いるルールシステムも、D&D3EやトーキョーNOVAなどではなく、「イメージゲーム」向きのものが相応しい。考えた末、「クトゥルフの呼び声」と「ハーン」シリーズを選ぶこととした。共に「遊び方」に考察の余地が残るゲームでもある。

次回、私が「遊び方」を考える際の中心となる概念について整理した後、実際の遊び方を考えていく予定である。