「卓上RPGを解釈する」ということ (2003年執筆)

本論考は、2003年12月18日に発表されたものです。文中の趣旨が、現在の筆者の考察とは異なる場合もありますので、ご注意願います。

「遊び方」を考える前に問うべきであった、卓上RPGの根本問題

はじめに:卓上RPGは、なぜ多種多様なのか

卓上RPGのゲームシステムには数多くの作品がある。そして同じゲームシステムであってもその遊び方、楽しみ方は多種多様である。このような多様さが生じる原因は「解釈」にある、と私は考えた。そしてまた、その「解釈」というものに無自覚であることこそが、しばしばプレイを楽しめなくさせる原因となるのである。

私にとっては当たり前のような概念であった、この「解釈する」ということについて、以下に考察を記す。

要約

  1. 卓上RPGにおける「解釈」とは、何らかの理論に基づいて、ゲームに関する考え方や個々のゲームシステムなどを理解することである。
  2. 「解釈」に無自覚な者は、己の「解釈」を「正統/理想的なプレイ」や「デザイナーの意図通りのプレイ」、それと異なるものを「異端/下手なプレイ」や「デザイナーの意図に反するプレイ」と見なし、互いを非難することがある。< /li>
  3. 「解釈」を自覚することによって、争いや失敗を避けることができ、また多種多様な楽しみ方を「選択肢」として活用することができる。

卓上RPGのすべてに共通すること

私の知る限り、現状の卓上RPGのすべてに共通することとして、まず次の三点がある。

  1. 舞台となる仮想世界を、参加者全員が共有すること。
  2. 各参加者は、仮想世界内の存在(キャラクター)を分担すること。
  3. 各参加者は、分担した存在を、所定の手順(ルール)に則って管理運用すること。

ジャンルや世界設定、ルールシステムなど、これら三つ以外の要素は作品によって様々である。

また、もうひとつ、すべての卓上RPGに共通することがある。それは、ルールブックに書いてないことはもちろんのこと、時にはそこに書いてあることすら、遊び手によって「解釈」された上でゲームプレイに適用される、ということである。そしてこの「解釈」が様々であるがゆえに、同じゲームシステムであっても実際のプレイに多様性が生じるのである。

「解釈する」ということ

「解釈」とは、辞書には「他の言動や古人の書き残した文章・歴史的事業の意味などを、その人の論理に従って理解すること」(三省堂新明解国語辞典第5版)とある。本論考で問う「卓上RPGにおける解釈」は、「ルールブックや他の資料などを、その人の論理に従って理解し、ゲームプレイに反映すること」とする。

ゲームのどの部分に対して、どういう理論に基づいてそれを行うのか。それによってそのゲームシステムに対する考え方は大きく変化し、それを前提とするプレイもまた異なったものとなる。

「卓上RPGというゲームそのもの」は「何を楽しむためのもの」なのか、「シナリオ」は「何のために用意されるもの」か、また個々の「ルール」や「設定」は「どのようなプレイを導き出すためのもの」なのか、などなど。事細かに挙げてはきりがないので、次に一例を示すこととする。

「解釈」の例:ゲームシステムは「完成品」か「完全な部品」か「不完全な部品」か

ルールブック上の記述 (ルールや世界設定など)と遊び手(ゲームマスターとプレイヤー)との関係を「解釈」するための「理論」(のひとつ)を、例として挙げてみよう。例えば、次の三通りの理論が考えられる。

  1. 「完成品」:ルールブックの記述だけで不足なくプレイを行うことができるはず、という考え方。
  2. 「完全な部品」:ルールブックだけでは不十分だが、サプリメントや雑誌上の記事など、すべての資料を集めれば、完成品ができあがるはず、という考え方
  3. 「不完全な部品」:すべての資料をそろえたとしても完成はせず、遊び手が不足を補わねばならない限り遊べない、という考え方

デザイナーがどの考え方の持ち主か、またその購入者がどの理論に基づいてそれを遊ぼうとするかによって、最終的なゲームプレイが変化していくのである。

「解釈」の多様性から生じる問題

「解釈」という行為とその多様性に自覚的であれば、「何れに基づいて遊ぶか」は遊び手同士が話し合う話題でしかない。今回はどのように遊ぼうか、と迷うことが楽しみともなりうる。

しかしながら、己れの「解釈」に無自覚な者にとっては、その背景となる理論が「当たり前のもの」であり、「誰もがそう考えるべきこと」となる。そのため、異なる理論に基づく異なる「解釈」に対し、違和感や反感を感じることが少なからず起こる。結果、次のような弊害が生じることとなる。

  1. 自分と異なる理論に基づくゲームシステムを「出来の悪いもの」と評価する。
  2. 自分と異なる「解釈」に基づくゲームプレイを楽しむ事ができない。
  3. 自分の「解釈」を正統とし、他を異端として非難する。

上記の何れもが、それに関与する誰にとっても不愉快なものとなることは明らかである。なお、「解釈」が嗜好の対象となることには問題が無い。すべてを好きになれる者は多くないのだから。自分の好きな者を「善/正しい」、嫌いな者を「悪/間違っている」と決め付けさえしなければ、歩み寄りの機会は常に残っている。

「解釈」から生じる問題の例

先の「解釈」例を用いて、問題の例を示してみよう。

  • 「完成品」のルールブックは誰にとっても素晴らしいものであるが、「完全な部品」に慣れた者は物足りなさを感じるかもしれない。「完全な部品」「不完全な部品」のルールブックは「完成品」を期待する者にとっては出来損ないである。「不完全な部品」のルールブックは、出ないかもしれないサプリメントを待つ「完全な部品」愛好家に不満を募らせるであろう。
  • 「完成品」の愛好家は「完全な部品」のゲームシステムの資料の多さに辟易し、逆の場合は資料の少なさに興を削がれるだろう。独自のアイデアで不足を補ったり、作品を弄ったりするのは「不完全な部品」を好む者にとって自然な行為であるが、他の者の目にはゲームシステムの欠陥もしくはその作品への冒涜と映るかもしれない。
  • 「完成品」を好む者は「完成品」のゲームシステムをのみ優れたものとし、そこで価値の高い技術こそ正統なものであると評価、他に対する優位を誇る。他も同様である。そして互いに異なるものを非難し合う。

「デザイナーの意図」が重要でない理由

「私は解釈などしたことはない、デザイナーの意図通りにプレイしている」という者がいるかもしれない。いや、むしろ多くの者は「我々はデザイナーの考えを尊重し、それに従うべきである」と考え、努めていることであろう。それは皆、善意と敬意に基づくものと信じたい。

しかしながらこの「デザイナーの意図」の内容となると、それは往々にしてその者の「解釈」なのである。「自分の解釈のみを"正しい"と思い込む者」を誰もが批判していながら、いまだに無くならないのはこのためである。誰もが「自分だけはそうでない」「自分はルールブックを素直に読んでいる」と思い込んでいるのだ。善人であっても自分の行為を疑う事は難しい。

そもそも私は「デザイナーの意図」なるものの価値を信じていない。なるほどデザイナーはなにがしかの思想をもってそのゲームシステムを作成したのであろうが、それが読み手に伝わるまでには二つのハードルがある。一つ目は、ルールブックの文章のすべてにその「デザイナーの意図」が正確に書き表されていることである。表現の失敗は無論のこと、「デザイナーの意図」が反映されていない文章があると誤りの元である。二つ目は、読者が、その「デザイナーの意図」をルールブックの文章からを正確に読み取る事ができることである。ここで誰かが間違った場合、それとは異なる「解釈」が生じる。もちろん本人は間違っていないことに気づいていないから、それを「デザイナーの意図」と主張する。

難しいだけなら努力すればよいが、加えて「デザイナーの意図」通りのプレイの重要視にも私は懐疑的である。なぜならば、デザイナーは「自分が面白かったプレイ」「自分が最も面白いと思うプレイ」を込めようとするかもしれないが、それは「デザイナー個人にとって」のものであり、その読者にとって面白いとは限らないためである。また、ゲームデザインの目的は基本的に面白いゲームシステムを構築することであって、誰にとっても最高に面白いプレイをさせるためのものではないと思われるからである。

もちろん、「デザイナーの意図」を読み取ろうと努め、読者のプレイに活かそうとすることは有益である。それと同時に、それ以外のプレイを求めることも決して「ルール違反」ではないと考えるのである。

「解釈」を評価することはできるか

このような「解釈」に対し、誰かが「正否」や「優劣」などの評価を行うことはできるだろうか?それができれば優れたプレイ法を推奨することもできるはずである。しかしながら、「現場の遊び手以外が評価すべきではない」というのが私の考え方である。なぜならば、「解釈」という作業は読者各々がそのゲームシステムを楽しむために行うものであり、個々の遊び手の嗜好をそこに参加しない者が評価することは適切ではないからである。

ところで、現場の遊び手なら評価できるとはいえ、遊ぶ前に参加者全員の賛意を募る時間が無い場合はどうすべきか。その折衷案こそが「GM is always right」(ゲームマスターは常に正しい)という名文句であろう。「解釈」が多岐に亘る場合は、とりあえずゲームマスターのそれに参加者全員が合わせるということである(←これもまた、私個人の「解釈」ではあるが)。もっとも、この文句が必ずしも守られていないのも現実ではある。何となれば、この文句を知る者の多くは、目の前のGMではなく、自分にとっての「理想のGM」に従うためである。この「理想のGM」もまた「解釈」の産物である。

結論:「解釈」の多様性を認識すること

「解釈」とは、誰の目前にも定かでないことに対して、読み手が仮に設けた概念である。実体の無い幻のようなものだが、それによって面白いプレイが提供されるならば、文句をいわれるべきものでもなかろう。また、個々の遊び手が様々な「解釈」を凝らし、互いに意見交換して、自分に合った楽しみ方を探るのもまた喜ばしいものではなかろうか。

肝要なことは、多種多様な楽しみ方があることを認識し、どれを採用するかを参加者同士で示し合わせる、もしくは誰か(大抵はゲームマスター)に合わせることである。各参加者が異なる「解釈」を採用/遵守した場合、良くても某かの不満を残し、悪ければプレイすべてが苦痛に終わり、最悪争いに発展することもありうる。

自分自身を含め、如何な名士の方法論であっても、それが万人のものではないことを認識すること。それによって不満足を避けると共に、楽しみに多くの選択肢を得ることができると私は考える。

おわりに:本論考執筆の動機と、次回予定

本論考に記した「解釈」という概念について、他の方が必ずしも同じ考えをお持ちではないとは、雑記 13に関する意見交換で気づかされた。自らの不覚を恥じる一方、良い勉強になったと感謝したい。

さて、次回雑記では、私が「解釈」した「卓上RPGの基本構造」について述べる。雑記11であまりに簡単に扱い過ぎたらしい「遊び方」について、再度まとめなおすものである。

繰り返すが、あくまでも私=鏡の「解釈」である。絶対の真理とは思っていないし、それに読者が従う必要はこれっぽっちもない。私と言う一人の遊び手が、卓上RPGを楽しむためだけに導き出した、そのひとつの結果。ただそうとして読んでいただければ、よいのである。