そこそこ自由なゲームプレイ

今回は、カテゴリー「自由に遊ぶ 実践篇」で当初予定されていた、最後から二番目の論考。「自己管理」について語ります。

「自由に遊ぶゲームプレイ」におけるプレイヤーには、ダンジョンシナリオなのにダンジョンに入らない、謎解きなのに謎を解かない、といった「極端な自由」までも認められています。しかしながら実際の「自由に遊ぶゲームプレイ」では、プレイヤーがそのような「極端な自由」を行使することはほとんどありません。いわば「そこそこ自由なゲームプレイ」に収まるのです。

このような「そこそこ自由なゲームプレイ」は、参加者各々による「自己管理」によって成立します。

「自己管理」とは、自分の発言や行動を、自分自身でコントロールすることです。全員の利益のために管理者を立てる「管理」に対して、「自己管理」は個々の利益のために各自の判断と責任で行われます。理念的には、遊びの管理くらい自分でやれ、と言うところ。また、「自由度」を「管理して遊ぶゲームプレイにおける擬似的な自由」とすれば、「自己管理」は「自由に遊ぶゲームプレイにおける擬似的な管理」とも言えます。

そして「自由に遊ぶゲームプレイ」における個々の利益とは、一人一人の参加者が「自分が面白いと思う」ゲームプレイを、より長く続け、より多く楽しむことです。「自由に遊ぶゲームプレイ」ではプレイヤーもゲームマスターも、「自分が面白いと思う」行動を担当キャラクターにさせることで遊びます。複数の参加者が一緒にそのように遊ぼうとすれば、各々の「自分が面白いと思う」行動をうまく共存させなければ、長く続けることはできません。ある参加者の「自分が面白いと思う」行動が、他にとっても「面白いと思う」ものであるなら最善、少なくとも他のプレイヤーやゲームマスターからその者の「自分が面白いと思う」行動を奪ってはならないわけです。

このような利益を得るための「自己管理」は、次の三段階で行うことができます。各々につき、私がお勧めする方法を示します。

第一に、ある参加者がキャラクターの行動を決める段階。「自分が面白いと思う」ような行動を発想する際に、対照的な案を二つ以上考えるよう心掛けましょう。ひとつが慎重なら、もうひとつは大胆な行動を。片方が好戦的なら、もう片方は和解的な行動を。ダンジョンに入らない、に対しては、ダンジョンに入る、など。複数の案を比較して、各々の面白さを再確認。皆の前でやるにはどちらの行動がより面白そうか?などと考えて、ひとつを選びます。選ばれなかった行動案も、後々使えるかも知れません。

第二に、その参加者がキャラクターの行動を他に述べる段階。第一段階で決めた行動を表明する際に、その行動の何を「自分が面白いと思う」のか、までを他の参加者全員にアピールしましょう。例えば、ダンジョンに入ろうとするなら入ることであなたが得たい「面白さ」を、入らないなら入らないことで得ようとする「面白さ」を、皆に説明し、理解を求めるのです。発想したけれど選ばれなかった、他の行動案を示すことも、理解をかちとるのに効果があるかも知れません。

第三に、そのキャラクターの行動を他の参加者が認める段階。第二段階で説明を受けた者は、アピールされた「面白さ」を好意的に受け止めるよう努めましょう。プレイヤーもゲームマスターも、他の参加者がキャラクターに行動させている時は「観客」です。今の「登場人物」が投げかける「面白さ」を「観客」として楽しみながら、次の「登場人物」としては「その行動を前にして、私だったらどうする?」と自問します。その答えを元に、可能なら相手の行動を活かせるよう、「自分が面白いと思う」行動を考える、それが次の第一段階となります。

以上の三段階は、全員参加による密なコミュニケーションの中で、幾度も繰り返されます。プレイヤーは、ゲームマスターに話す以上に、他のプレイヤー全員に語りかけねばなりません。そうして互いに、相手の「自分が面白いと思う」行動を、自分の「面白いと思う」行動に利用していくのです。参加者の誰の発言も聞き逃せませんから、誰もが緊張した時間を過ごすことになります。この緊張感もまた、大きな楽しみのひとつです。

このように各参加者が、「自分が面白いと思う」ように遊びたいがために、他の参加者に配慮しながら遊ぶなら、大抵は「そこそこ自由なゲームプレイ」に落ち着きます。特に初対面の者同士で遊ぶ時には、「自分が面白いと思う」行動の中から、最も無難なものを選ぶことになるでしょうから。

また、気心知れた仲間同士や、初対面でも信頼し合うことに慣れた者同士なら、先の二段階を省略し、第三段階のみで遊ぶこともできます。この場合は、最初に思いついた「自分が面白いと思う」行動を、簡潔に説明すれば十分です。参加者の誰もが「面白いと思う」ように行動し、誰もが仲間のどのような行動をも受け入れる、それだけを互いに信用して遊ぶのです。このような信頼関係の中からなら、「極端に自由なゲームプレイ」も生まれえます。

もっとも、そのゲームプレイが傍から見て「そこそこに自由」か「極端に自由」かは、それを遊んでいる本人たちには重要ではありません。ただ「自由」に遊ぶ、即ち「自分が面白いと思う」ように遊ぶこと、それだけが遊びの現場においてはすべてなのです。

次回は当初予定でのカテゴリー最終記事として、「自由と管理の混在」について記します。いただいたご意見へのお返事はその後までお待ちください。