努力しなくてもよかったRPG

「努力」論の三回目です。「努力とは何か」の冒頭で、私は次のように述べました。

元々、卓上RPGは「努力しなくてもよい」ものだよなぁ、という話。もっとも、それは「滅んだ」ので、「努力しなくてもよかった」というべきか。

「努力しなくてもよいRPG」が滅んだ、とは即ち、「努力しなくてはならないRPG」しか無くなった、ということです。まずは両概念の定義から。

  • 努力しなくてもよいRPG」では、努力してもよいし、努力しなくてもよい。何について努力するかは、参加者一人一人が自分で決める。努力しないことも、自分で決める。
  • 努力しなくてはならないRPG」では、全員が等しく努力しなくてはならない。何について努力すべきかは、皆で決める。努力してはならないことも、もしあれば、皆で決める。

更に具体的に比較すべく、設問を十例ばかり挙げてみます。

  1. すべての戦闘に勝たなくてはならないか。あるいは、勝っても負けてもよいか。
  2. すべての謎を解かなくてはならないか。あるいは、解けても解けなくてもよいか。
  3. ミッションを成功させねばならないか。あるいは、成功でも失敗でもよいか。
  4. シナリオは完結させねばならないか。あるいは、未完のままでも構わないか。
  5. キャラクターの演技や声真似をすべきか。あるいは、演じなくてもよいか。
  6. キャラクターを生き残らせるべきか。あるいは、途中で死んでも構わないか。
  7. ルールシステムを効果的に用いるべきか。あるいは、無駄に用いても構わないか。
  8. プレイ時間内に終わらなくてならないか。あるいは、尻切れトンボでもよいか。
  9. マスターの自己紹介を上手にすべきか、あるいは、上手でも下手でも構わないか。
  10. 他の参加者を楽しませなくてはならないか。あるいは、自分が楽しければよいか。

ゲームプレイにおいて、「しなくてはならない」こと、「すべき」ことが一つでもあれば、そのために全員が「努力しなくてはならない」ことになります。そこには、努力によって得られる「理想のゲームプレイ」が想定されています。

「理想のゲームプレイ」が想定されなければ、あらゆる設問において「どちらでもよい」「どうあっても構わない」、それ故「努力しなくてもよい」ことになります。目前のゲームプレイがあるだけで、それを遊ぶのみ、楽しむのみ。

では、「理想のゲームプレイ」とは、何を根拠として想定されるのか。次の三通りが考えられます。

  • 自分の体験や理論に基づく。その人自身が過去に体験した内で最も面白かったゲームプレイや、それを再現するための理論の実践を「理想のゲームプレイ」とする。
  • 原作となった作品に基づく。そのゲームシステムの資料となった小説や映画のストーリーなどを、可能な限り忠実に再現することを「理想のゲームプレイ」とする。
  • 他人の体験や理論に基づく。公式リプレイとして提供されたゲームプレイや、他人が構築した理論の中に示されたゲームのあり方を「理想のゲームプレイ」とする。

まったくの「初心者」であれば、「理想のゲームプレイ」像を持っていません。原作作品やリプレイを読んでいたとしても、それらを初めて体験するゲームプレイに結びつけるのは困難です。誰であれ、自分のゲームプレイの中で試行錯誤しながら、卓上RPGの面白さを自分なりに探っていくことでしょう。放っておいても、自然と。

実際には、「初心者」が自分なりの面白さを見つけるまで、周囲が必ずしも放っておいてくれません。経験豊かな者がしばしば、「私と同じようにプレイせよ」「この原作小説を読め」「このRPG理論を憶えよ」「このリプレイを読め」などと、自分の「理想のゲームプレイ」を押しつけてきます。もちろん悪気からではなく、善意から。

善意の押しつけが生じるのは、関与する人数が増えて市場が広がり、相互に干渉できるだけの環境が整った証左です。熱意あふれる若者にとっても、理想のための努力を押しつけられることは、必ずしも不愉快ではないでしょう。押しつける側にとって、それが「無意識の努力」なため、押しつけたと気づいていないこともありますが。

ただし、誰もが「努力しなくてはならないRPG」を望むわけではありません。卓上RPGの初心者と、その初心者を迎える卓においては、「努力しなくてもよいRPG」(努力してもよいRPG)とした方が相応しい、と私は考えます。もちろん、「努力しなくてもよいRPG」を愛好する者にとっても。

「滅んだ」ものの復権については、今後も考えてまいります。