楽しむ娯楽と楽しまされる娯楽、楽しませる義務と...

娯楽には、「楽しむ」ものと「楽しまされる」ものとがあります。

「楽しむ」娯楽とは、スポーツや音楽の実技(play)、映画の製作などのことです。このような娯楽への参加者たちは、なにがしかの約束事(rule)を共有し、なにがしかの役割を分担して、それらを能動的に実行することそのものを「楽しむ」のです。囲碁やチェス、様々なトランプやボードゲームなど、多くの「ゲーム」は「楽しむ」娯楽に含まれます。「楽しむ」ことを極める者は、その道のプロフェッショナルにまで連なります。

「楽しまされる」娯楽とは、スポーツの観戦、音楽や映画の鑑賞などのことです。このような娯楽への参加者は、「楽しませる」側と「楽しまされる」側とに分かれます。「楽しまされる」者は、「楽しませる」者が提供する実技(play)や作品を受動的に受け入れ、その中になにがしかの喜びや感動を見出そうとします。両者の間に約束事(rule)があっても、「楽しませる」ために有益であれば、それを反故にすることも許されます。

娯楽を求める者には、次の三者があります。

  • 「楽しむ」ことも「楽しまされる」こともできる者。事前説明や経過から、どちらの娯楽であるかを判断し、応じた楽しみ方を選ぶことができる。
  • 「楽しむ」ことだけを好む者。「楽しませる」者がいても、自分の「楽しみ」ばかりを追い求めるので、「楽しまされる」娯楽を台無しにしてしまう。
  • 「楽しまされる」ことだけを好む者。「楽しませる」者がいなくても、自ら「楽しみ」を探ろうとはしないので、「楽しむ」娯楽を停滞させてしまう。

卓上RPG(TRPG)は、どのように遊ぶか(遊び方)によって、「楽しむ」娯楽にも「楽しまされる」娯楽にもなります。初期には他の「ゲーム」のように「楽しむ」娯楽が主でしたが、特に日本ではコンピュータRPG(=楽しまされる娯楽)の先行やメディアミックスの影響などもあり、現在では「楽しまされる」娯楽が大勢となっています。即ち、ゲームマスター(GM)が「楽しませる」側、プレイヤー(PL)が「楽しまされる」側となり、「小説や映画のように楽しまされる」ゲームが「成功」し易いように様々な工夫が追加されました。「楽しむTRPG」から「楽しまされるTRPG」へと「進化」した、と言えます。

「楽しまされる」TRPGは更に、GMが用意したダンジョンをPLが正しく攻略する、GMが用意した謎かけをPLが正しく解く、GMが用意した物語をPLが正しく成立させる、などの遊び方に分かれます。例えば「楽しまされる」ダンジョンでは、PLが担当するキャラクター(PC)をどこで退却させるかを悩む必要はありません。「楽しまされる」ダンジョンは、PCの能力に合わせて丁度よいバランスにデザインされている筈ですから、出された部屋をすべて巡れば良いのです。「すべて」で無いなら、どうすれば良いのか、どうすれば正しく「楽しまされる」のかは、ひとつひとつGMが誘導してくれなくてはいけません。

さて、「GMにはPLを楽しませる義務がある」という意見があります。達成を義務づけるのでなく「努力義務」としても、これは奇妙な「義務」です。TRPGという遊戯における、この「義務」は、「GMがPLを楽しませる」(PLがGMに楽しまされる)遊び方で、しかも「GMにPLを楽しませる気が無い」場合にのみ成立するのですから。

GMとPLとの全員が、自分の立場で各々「楽しむ」遊び方では、そもそも「GMがPLを楽しませる」必要がありません。誰かから「楽しまされる」のを待っている参加者は、そこにはいませんので。

「GMに楽しまされる」のを待つPLを前に、GMが「PLを楽しませる」ことを望むなら、そのGMにとって「PLを楽しませる」ことは自分の意志で自由に行う「権利」です。立場上やらなければいけない「義務」とされる必要はありません。

「GMに楽しまされる」のを待つPLを前にしても、それだけでは「PLを楽しませる」気にならないGMだけが、「PLを楽しませる義務」を負います。このようなGMには、「PLを楽しませる」以外にやりたいことがあるのです。例えば、GM自作のダンジョンや謎かけや物語を、PLの前で発表したいだけかも知れません。面白おかしくリプレイを書きたいだけなのかも。その脳裏には素晴らしいゲームプレイが想像されており、PLを駒に使ってそれを実現(脳内を再現)させたい。期待通りになれば満足、ならなければ怒り心頭。うん、いたな、そういうGM。

そのようなGMも、一時期のGM不足を補うためには貴重だったのかもしれません。「GMにはPLを楽しませる義務がある」とは、そこから生まれた言葉だったのでしょう。GMは自作の物語をPLに押しつけても良い(権利)、ただしその物語で「PLを楽しませる」ようにしてくれよ(義務)、などと。そうして「Win-Win」な関係を成立させていたわけで。

ところで、相手に「義務」を履行させるには、「権利」を与えるだけでなく、それに対応した「義務」を自分も負う、というのが有効なやり方です。「GMにはPLを楽しませる義務がある」なら、PLにはどのような義務があるのでしょうか。「楽しかった」(上手に楽しまされた)か否かを正直に言う、のは違います。感想などを自分の意志で自由に言うのは、「権利」ですから。

私の考えでは、「GMにはPLを楽しませる義務がある」なら、「PLにはGMに楽しまされる義務」がある、というところ。GMが義務を果たしたなら、少なくともそうしようと努力したなら、PLは皆でそれを認め、素直に褒め称えよう、というのが建前。本音は、必ず「楽しまされる」のが義務ですから、「つまらなかった」という感想を抱いてはならない、少なくとも言ってはならない、ということです。「ネガティブな発言」さえ無ければ、最善の結果だったことにしてしまって、「Win-Win」を維持する、と。

その具体策としては、批判や反省は悪いことだと喧伝し、また現場でも同調圧力をかける、というのが初歩。「経験点が多く貰えるように遊ぶ」のが良いことで、ゲームはそのようにデザインされている、と信じさせれば、経験点さえあれば「楽しませ、楽しまされた」気分に浸ることができます。いっそ、「私は楽しかった」という欄を設けて、それにチェックを入れれば経験点が貰えるようにしてはどうか。

いかなる「義務」にも、それが必要となった経緯があります。「しなくてはならない」こと全てを嫌っても、ただ不満が溜まるだけです。その義務が有益となるのはどのような状況か、を考察することで、「義務」を活用し、多くの利益を得ることができるでしょう。ゲームであっても、実生活であっても。