宗教としてのTRPG

警告。今回述べる「虚構」三論考三本目は、「宗教」論。難解かも知れませんが、蓋し不言言之。

人は「宗教」無しには生きられません。人は「善」「悪」の価値観に則って生きており、それら価値観を与えるものが「宗教」ですから。さもなくば人は、「何をしたら良いのか分からない」のです。仏教やキリスト教など「狭義の宗教」を信じない者も、何かを「宗教」とし、何かを「善」「悪」と信じて生きています。何を信じるのであれ、それを「宗教」とわきまえないと多大な害悪を及ぼします。

定義。「宗教」とは、人に「善」「悪」の価値観を示し、思考や行動に指針を与えるもの、とします。「善」とは「誰もがすべき思考や行動」、「悪」とは「誰もがすべからざる思考や行動」です。狭義に「宗教」と言えば伝統宗教や新興宗教を指しますが、広義には民主主義や共産主義、平和主義や立憲主義など、あらゆる思想が含まれます。「無宗教」も、「宗教」のひとつとして機能します。

まず、「善」「悪」の価値観は「虚構」です。思考や行動は本来、ただ「自由」なもの、即ち「自分で決めること」です。それなのに、或るを「善=すべきこと」、或るを「悪=すべからざること」と、「事実ではないことを事実らしくつくり上げ」てしまうのは何故か。「善だからする」なら、「自分で決める」負担を免れ、責任からも逃れられると思うのかも知れません。逃避、そして依存。

これら「善」「悪」という「虚構」を正当化するのが、「絶対的権威」という、より大きな「虚構」です。「神」「真理」「理想」「常識」「皆(みんな)」など、様々な「虚構」が「絶対的権威」として用いられます。「絶対的権威」に逆らえば問答無用に「悪」なので、「宗教」に従順でいたければ「考えるな、感じろ」即ち「自分の考えは持つな、空気を察して、周囲に合わせろ」が無難な生き方です。

「何をしたら良いのか分からない」のを楽しむ者は、自分で決める「自由」を欲します。「分からない」を恐れる者は「自由」をも恐れ、「善」「悪」を示し導いてくれる「絶対的権威」を欲します。「事実」は「善」「悪」など示してくれませんから、「絶対的権威」そして「宗教」になりうるのは「虚構」だけです。欲する者にとって、あらゆる「虚構」が「宗教」となりえます。故に「虚構」は「宗教」なのです。

例えば。「みんな仲良し」という「虚構」が「宗教」になれば、「みんな」という「絶対的権威」に従うことが「善」です。「みんな」とは「虚構」なので、誰がしか力ある者が「みんな」を代弁し、他を従わせます。あるいは、一部の者を「みんなでない」即ち「悪」とすれば、それ以外の全員は「悪でない」から「善」となります。このように「みんな仲良し」は、いわゆる「いじめ」を正当化します。

さて、人は「宗教」無しには生きられませんが、「宗教」を「絶対的」に扱うか、あるいは「相対的」に扱うか、との二通りがあります。

絶対的宗教」では、己の「絶対的権威」「善」「悪」のみが「真理」です。「真理」と異なるものはすべて誤りであり、誤りを信じる者は軽蔑と嘲笑の、あるいは憎悪と排斥の対象となります。自分の「宗教」に無自覚な者ほど、「絶対的宗教」に陥ります。「宗教」即「誤り」と断じる者などは、自分が「真理」という「絶対的権威」の側にある、と信じ切っているので。人は、自分が嫌いな者に似ていくのです。

相対的宗教」では、己の「絶対的権威」「善」「悪」は、他の「宗教」におけるそれらと「相対的」なものです。自分の「宗教」を信じるにせよ、それは数多くの「宗教」のひとつである、と捉えます。自分が自分の「宗教」を信じるように、他者は他者の「宗教」を信じているのであって、自他の「善」「悪」が異なっていても争う必要はありません。あちらはあちら、こちらはこちら。ただ、我が道を行くのみ。

例えば。「みんな仲良し」が「絶対的宗教」であれば、自分たちの「みんな」に従うことだけが「善」で、それ以外はすべて、軽蔑と嘲笑、あるいは憎悪と排斥の対象となります。ただし、相手方の方が優勢と見れば、保身のために即座に寝返るかも知れません。「みんな仲良し」が「相対的宗教」であれば、それは暫定的、流動的な状況と捉えられ、軽蔑や憎悪にまで至ることはありません。

ここからが、ようやく本題。TRPGはゲームですよ、もちろん。しかしながらTRPGに関する「虚構」もまた、それが「善」「悪」を示す時には、「宗教」となっているのです。それが「宗教としてのTRPG」です。

例えば「TRPGを数多く遊ぶのが望ましい」という「虚構」は、最も純朴な「宗教としてのTRPG」です。多は「善」、少は「悪」。敬虔なキリスト教徒が日曜日毎に教会に通うことを誇るように、休日には可能な限りコンベンションに通い、純朴にゲームプレイの回数を誇る。回数を稼ぐためには、内容はむしろお定まりの方が良いかも知れません。

「ゲームプレイが完結した物語となるのが望ましい」や「ゲームプレイが予定時間通りに終わるのが望ましい」などの「虚構」も、そうなれば「善」、ならなければ「悪」なら、それは「宗教」です。いわゆる「馬場理論」や、FEAR式「ゴールデンルール」なども、それを「善」とする、または逆に「悪」とするなら、「宗教」として機能します。

先に述べた「皆が楽しい」という「虚構」も、そうであることが「善」とされれば、それは「宗教」です。その信者は、スローガンやプロパガンダの下で自分が「善」の側にいることを誇り、そうでない者に軽蔑と嘲笑、憎悪と排斥を投げつけるかも知れません。あるいは、自分が「悪」の側にならないよう、周囲の顔色に戦々恐々としつつ、「楽しそう」な振りをしているかも知れません。

人は「宗教」無しには生きられないように、「宗教としてのTRPG」無しにはTRPGを遊べない、のかも知れません。しかし「宗教としてのTRPG」もまた、それを「絶対的」に扱うか、「相対的」に扱うか、の二通りがあります。「絶対的宗教としてのTRPG」では、「絶対的権威」「善」「悪」が「絶対的」で争いを生みますから、私はお勧めしません。争ってでも「楽しければ良い」という者もいましょうが。

相対的宗教としてのTRPG」とは、要するに多種多様な「遊び方」を受け入れ、それらを選択肢と捉えることです。どのルールシステムを、どの世界設定で、どのように遊ぶか。どのような「遊び方」であっても、そこに上下正否はありません。ある一回のゲームプレイという暫定的、流動的な状況において、或るを「善」とはしますが、同じことが他のゲームプレイでは「悪」かも知れません。

例えば、怪しい依頼人からの「依頼を受ける」か「依頼を断る」か、危険な状況下で「すぐに進む」か「一旦戻る」か、強そうな敵と「戦う」か「退く」か。「ゲームマスター主導」ならゲームマスターの期待(シナリオの都合)に従うことが「善」であっても、「プレイヤー主導」でそれを強いることは「悪」となります。それは「宗教」の違いであって、どちらかが「真理」なのではありません。

「相対的」であるための最善の方法は、相手が「悪」を選んだとしても、それはあなたにとって「悪」でも相手にとっては「善」なのだろう、と捉えて次へ進むことです。自分の「善」を守るため、相手を貶めようとしてはなりません。あちらはあちら、争う必要はないのです。だって、どうせ「宗教としてのTRPG」は、どちらも「虚構」なのですから。ただただ、「皆で楽しむ」べし。

以上、「虚構」三論考の三本目。これにて完結。