井上純弌氏が説く「自由」の誤解

アルシャードガイアRPGサプリメント『エブリデイマジック』の序文で、井上純弌氏は「シナリオクラフト」という遊び方を「自由なTRPG」と評しています。しかし私は、そもそも彼が説く「自由」にひどい誤解がある、と考えています。

以下、序文「Dream Comes True」から引用しつつ、その誤りを正してまいります。まず、冒頭の一文。

昔々、「TRPGは自由な遊びである」と、言われた時代があった。
何をやってもいい。やらなくてもいい。シナリオはおろか、ゲームマスターの準備もなにもなく、ただそこに街や平原があり、なにもないところにキャラクターが居るだけでいい。
それが自由。それこそがTRPGである。
(『エブリデイマジック』p.6、以下引用も同じ)

この文章に、根本的な誤りがあります。「何をやってもいい」なら、シナリオやゲームマスターの準備もまた「やってもいい」はずなのです。しかし、そちらの選択肢は文中にありません。

シナリオなどの準備を一切せず、その場の思いつきやプレイヤーの発案に任せるマスタリング技術は、しばしば「フルアドリブ」と称されます。もし「準備する自由」が認められないなら、「自由」ではなく、「フルアドリブ」について語られていることになります。

この点に注意しながら、続きを読みましょう。

―残念ながら、現在そのようにTRPGを遊ぶ人間は、いないわけではないが、ごく少数。超マイナーな遊び方になってしまった。
流行らない理由はいろいろあるだろうが、つまるところ、この遊び方はあまり面白くならない。
まぁ、ちょっと想像してもらえば分かるとおり、目的なく、ただキャラがそこら辺を歩き回るだけでは、間延びした、眠いセッションになりがちである。

なにより、この遊び方が廃れてしまったところを見ると、皆が求めるTRPGは、そこになかったのだろう。

「目的なく、ただキャラがそこら辺を歩き回るだけでは、間延びした、眠いセッションになりがち」とは、どのようなゲームプレイだったのでしょうか?

プレイヤーは、自分のキャラクターに何ら目的を持たせることなく、そこら辺を歩き回らせることしかしない。ゲームマスターは、目的になりそうな情報を提供せず、キャラクターが歩き回ってもイベントを起こさない。なるほど廃れてしまいそうな遊び方ですが、なぜそのようなプレイになったのでしょうか?

「何をやってもいい」からでしょうか?それとも、シナリオを準備していなかったからでしょうか?

然るべきシナリオを準備していれば、プレイヤーはともかく、ゲームマスターから何らかの対応ができるはずです。それすらできないのは、シナリオの準備も、それに代わるものも無かったからだろう、と私は考えます。

先の見えない黎明期、あこがれと共に夢想された“自由な”TRPG。
それは、自由という気軽さ。何もないところに人だけが集い、何の準備もなしに始められる気軽さである。

この本はそういった、古き良きTRPGの理想を最新のTRPG技術で復活させたサプリメントである。

(中略)

昔々、TRPGの黎明期、皆が夢見たセッション。何の準備もなく、人が集うだけですぐに始められ、想像力の続く限り、無限に、しかも面白く遊べるTRPG。
“自由な”TRPG。
その夢が、ここに結実したのである。

結局、井上純弌氏にとっての「自由」とは、「何もないところに人だけが集い、何の準備もなしに始められる気軽さ」のことのようです。少なくとも、「何をやってもいい」という文句は、その後一切出てきません。

もちろん、「何をやってもいい」ことが「何の準備もなしに」できるなら、それは私にとっても理想的な「自由なTRPG」(のひとつ)です。果たして「シナリオクラフト」がそれを実現しているか?次回検証することとします。…ついでに、本当に「想像力の続く限り、無限に」遊べるか否かも。

ちなみに、シナリオが準備された「自由なTRPG」の体験例を、かつて『ゲーマーズフィールド』誌上で鈴吹太郎氏が紹介したことがあります。もっとも鈴吹氏はその折のプレイ内容に大層ご不満だったようで、私も改善の余地ありと思いますが。(関連論考)