反省に耐えられないのも現実、他

xenothさんからこちらへのトラックバックをいただきました。毎度有難うございます。

まず、「反省会」についてはご指摘の通りで、またゲームプレイ本編も「自由に言いたいことを言える場」であって欲しい、というのが私の願いです。更に言うなら、「反省会」がうまくいかなかったからといって「反省」という言葉のせいにするというのは、「言葉狩り」でしか無い、と考えます。

とはいえ、xenothさんが仰る「辞めてしまう」といった問題も理解できます。そういう現実があるからこそ、FEARが名称を変えるなどして対処してあげなければならなかったのでしょう。そうしたFEARの努力を軽んじる気は毛頭ありません。ただ、子供ならともかく、大人がいつまでもそこに依存するのは情けない話。存在はやむを得ないにせよ、基準にする必要は無いのでは?と正直思います。

次に、「他人の自由と楽しみを必要以上に侵害しないという上で」という条件付けは、理論上は納得できますが、実際の運用では「その線引きを誰がするのか」という問題が生じます。線引きを誰かに任せ、他が従うなら「管理」となるわけです。「自由」を求めるなら、判断は各自で行うしかありません。遊ぶ相手が「他人の自由と楽しみを侵害するのが楽しい」という人間でないことを、信じなくてはなりません。

この辺、現在まとめている「卓上RPGを自由に遊ぶ」の実践編で取り上げる予定です。日本独特の、「初心の頃から」「初対面の相手と」「単発のプレイ」をしなくてはならない、というプレイ環境が関与しています。

あと、FEAR社がFEAR理論に則ったFEAR式遊戯法を示すのは、仰る通り「FEARの自由」です。それらを好んで遊ぶのも「自由」。私がそれらを否定したことはない筈です。同様に、それらを批判し、異なる理論や方法を求めるのも「自由」です。「自由」と「自由」の間には干渉も度々ありますから、そこでは忌憚ない議論が行われるのが健全です。

なお、「自由」同士の干渉については、拙論「自由と自由が争う時」でも触れております。参考までに。

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