02 殴り合うコミュニケーション

卓上RPGに限らず、「コミュニケーション」(言語による意思伝達)は重要な行為です。この「コミュニケーション」を、ここではその仲の良さ/悪さ、あるいは優しさ/厳しさで三段階に分け、次のように称します。1が最も親密、3が最も殺伐としたものです。

  1. 睦び合うコミュニケーション
  2. 殴り合うコミュニケーション
  3. 殺し合うコミュニケーション

「殴りあわない人々」について説く前に、健全な方について詳しく書いておきます。「殴り合う人々」とはちょっと物騒ですが、要は、「睦び合う」「殴り合う」「殺し合う」の三つのコミュニケーションをすべて知っていて、状況に応じて使い分けられる者のことです。いつでも「殴り合う」ことができる、ということであって、いつも殴り合っているわけではありません。

殴り合わない人々」とは、「殴り合うコミュニケーション」を行わない者のことです。彼らには、「睦び合う」か「殺し合う」かという両極端な二つのコミュニケーションしかありません。「殴り合えない人々」とも言えます。

「殴り合う人々」は日々気軽に「殴り合う」のに、「殴り合わない人々」はそうではありません。知識の差、後者が議論やケンカ(口喧嘩)などの「殴り合うコミュニケーション」をまったく知らないため、とは考えられません。現実に社会はそれらで満ちており、様々なメディアがそれを知らしめているのですから、仮にあったとしても至極稀でしょう。「殴り合う」ことを知ってはいるけれど、自分の行動としてそれを選択しないわけです。

「殴り合うコミュニケーション」の有無は、卓上RPGのプレイにも影響を及ぼします。仲間と「殴り合う」ことを抵抗無く楽しめる者と、何らかの理由で「殴り合う」ことができない者とでは、「好ましい」と思う遊び方が異なってくるのです。

「殴り合うゲームプレイ」では「睦び合う」のも「殴り合う」のも楽しまれます。対して「殴り合わないゲームプレイ」では、「睦び合う」ことは楽しまれますが、「殴り合う」方は選択できません。

自分の正直な意見を示し、異なる意見と闘わせることが、「殴り合うコミュニケーション」です。「殴り合う人々」はそれを楽しみ、「殴り合わない人々」は忌避します。卓上RPGのような遊戯についてであっても、それは変わりません。卓上RPGに関する論考や議論などを巡って、「殴り合う人々」と「殴り合わない人々」との姿勢の違いは、三つの点で明確に表れます。

stealthさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

以下、お返事。

「うすくちゲーマのTRPGラクガキ帖」のアキトさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

結論から言うと私は、やるかやらないかだけが重要、と考えております。やらない間はできるかできないかは決して証明されず、しかし一回でもやれば、できることは明白になるのですから。以下は各論。

ここからは余談ならぬ余論です。三本組の予定。

聖徳太子の憲法十七条は、「和をもって貴しとなす」から始まります。日本人なら誰もがこの文句を知っているでしょうから、「殴り合う」などとんでもない、と思われる方がいるかも知れません。第一の余論として、この条文が「殴り合うコミュニケーション」を否定するものなのか、考えてみます。

アキトさんのお返事に感謝します。ひとつ気長にお付き合い願います。

まず「できる/できない」について、私の考えを示し直します。ややこしいですけれど。

紙魚砂さんとアキトさんのお考えを伺うに、なるほど「反省会」についての認識には差異があるようですね。

ここで私の考えもまとめておきます。「成功も失敗も無いセッション」における反省会についても後述します。

アキトさんからいただいたご意見へのお返事を、簡単に。

第二の余論は心理学。素人の生兵法なりに、「殴り合うコミュニケーション」の背景心理について考えてみます。詳しい方からのご意見を大歓迎。

結論は、「殴り合う」ためには自己肯定が必要で、自己否定そして「自我肥大」に陥った者には難しい、ということです。

最後の余論。いわゆる「いじめ」の中には「殴り合うコミュニケーション」が見られない、という話です。

「殴り合うコミュニケーション」についての、私から説く最後の文です。トラックバックをいただいた場合は、続きますけど。

自問はタイトルの通り、私=鏡は「殴り合う人々」か?というものです。

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